2016/11/26

もくじ

順次公開していきます。公開している項目には記事へのリンクがついています。

はじめに
東京の水覚書 →2015/11/19公開

第1部 渋谷川水系の川と暗渠をたどる
1章. 渋谷川上流部(穏田川)とその水系
【1-1】渋谷川上流部とその水系の概要 →2015/11/21公開
【1-2】渋谷川上流(1)「千駄ヶ谷」(新宿御苑)の源流 →2015/11/21公開
【1-3】渋谷川上流(2)玉川上水余水吐〜本流原宿橋まで →2015/11/23公開
【1-4】玉川上水原宿村分水(1)原宿村分水、千駄ヶ谷分水 →2015/11/25公開
【1-5】玉川上水原宿村分水(2)神宮北池の流れと原宿村分水下流 →2015/11/27公開
【1-6】渋谷川上流(3)本流 原宿橋〜渋谷駅まで →2015/11/29公開
【1-7】明治神宮「清正の井」からの川と東池からの川 →2015/12/01公開

2章. 宇田川とその水系
【2-1】宇田川水系の概要 →2015/12/04公開
【2-2】河骨川(1)上流部 →2015/12/04公開
【2-3】河骨川(2)下流部 →2015/12/06公開
【2-4】宇田川初台支流(初台川)(1)上流部 →2015/12/09公開
【2-5】宇田川初台支流(初台川)(2)下流部 →2015/12/11公開
【2-6】宇田川富ヶ谷支流 →2015/12/14公開
【2-7】宇田川(1)狼谷の上流部 →2015/12/17公開
【2-8】宇田川(2)上原支流と宇田川中流部 →2015/12/20公開
【2-9】宇田川(3)神山町の支流と宇田川下流部 →2015/12/23公開
【2-10】宇田川松濤支流・三田用水神山口分水と神泉谷支流 →2015/12/27公開

3章. 渋谷川中流部とその水系
【3-1】渋谷川中流部水系の概要 →2016/1/7公開
【3-2】渋谷川中流部(1)渋谷川中流部と黒鍬谷の支流 →2016/1/7公開
【3-3】三田用水鉢山口分水 →2016/1/11公開
【3-4】三田用水猿楽口分水 →2016/1/14公開
【3-5】いもり川 →2016/1/17公開
【3-6】渋谷川中流部(2)三田用水道城口分水と渋谷川中流部その2 →2016/1/22公開

4章. 笄川とその水系
【4-1】笄川水系の概要 →2016/1/30公開
【4-2】笄川上流部 →2016/1/30公開
【4‐3】笄川長者丸支流 →2016/2/3公開
【4-4】笄川根津邸支流 →2016/2/7公開
【4-5】蛇が池支流、龍土町支流、笄川中流部 →2016/2/13公開
【4-6】笄川下流部と高樹町支流、宮代町支流 →2016/2/19公開

5章. 古川(渋谷川下流部)とその水系
【5-1】古川水系の概要 →2016/3/30公開
【5-2】麻布本村町支流(竹ケ谷ツ支流) →2016/3/30公開
【5-3】三田用水白金分水(1)上流部と自然教育園の流れ →2016/4/17公開
【5-4】三田用水白金分水(2)伊達跡の支流と蜀江台方面からの支流 →2016/4/27公開
【5-5】三田用水白金分水(3)下流部と分流の痕跡 →2016/5/18公開
【5-6】白金三光町支流 →2016/5/27公開
【5-7】玉名川(1)三田用水分水地点から覚林寺まで →2016/6/6公開
【5-8】玉名川(2)樹木谷の支流と下流部 →2016/6/17公開
【5-9】麻布宮村町支流(1)がま池からの流れ →2016/7/7公開
【5-10】麻布宮村町支流(2)宮村町の湧水の流れ →2016/7/15公開
【5-11】藪下の支流 →2016/9/29公開
【5-12】芋洗坂〜麻布十番の流れ(吉野川)と柳の井戸 →2016/10/6公開
【5-13】麻布狸穴町の支流(青山上水排水?) →2016/10/16公開
【5-14】古川(1)天現寺橋〜古川橋 →2016/11/21公開
【5-15】古川(2)二之橋〜河口 →2016/11/26公開


第2部 鮫川・桜川の暗渠をたどる
第3部 水窪川・弦巻川の暗渠をたどる




【5−15】古川(2)二之橋〜河口まで

(※写真はすべて2005年撮影です。現状とはだいぶ異なっている区間もあります)

 引き続き、渋谷川の下流部古川を河口まで辿っていきます。まずは今回の範囲の地図を。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

三之橋と入間川

 古川橋から一の橋にかけて、古川沿いは胃袋のようなかたちをした低地が広がっています。この低地は江戸初期頃までは大きな池だったと推定されています。それを裏付けるように、関東大震災の際は周囲に較べ震度が大きかったことがわかっており、もともと沼地で地盤が弱かったことがその原因とされています。
 この池から流れ出す川の流路は現在の古川のそれとはと異なっていたという説も唱えられています。三の橋の東方、慶応大学の南側の三田台地が鞍部状に低くなっているのですが、川はそこから流れだし、東京湾へと繋がっていたのではないか、というのです。
 鞍部を越えた北東方向にはかつて、芝2丁目32付近から現在の「旧海岸通り」のところから東に「重箱堀」まで延びていた「入間川(いりあいかわ)」と呼ばれた堀割があり、周囲の町の下水が流れ込んでいました。この入間川は、もともとの古川本流の最下流部だったといわれています。新編武蔵風土記稿によれば、かつて三田村付近で古川と分かれ、荏原郡と豊島郡の郡界を流れて本芝町に至り、里俗入間川に通じ芝橋の東で海に流れていた、とされています。
 ただ、標高を見てみると、この鞍部は10mほどはあります。三之橋付近は標高5.5m前後、そして現在の古川下流方向の麻布十番付近は4.8〜5mと、自然に水が流ればこの鞍部を越えていたとは考えにくいところです。
 古川のかつての流路はこの鞍部ではなく、一之橋の手前から分かれて、三田の台地の北側を回りこみ流れていたとの説もあり、地形的にはこちらのほうが妥当に思えます。新堀川開削(後述)の時に、その大部分が埋められ、下流の入間川の区間だけ残ったのではないでしょうか。なお、入間川は江戸末期より護岸の崩れなどで埋まり始め、1918年には埋め立てられてしまいました。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)


二之橋と三田台地


 三之橋、そして南麻布一丁目児童遊園橋という小さな橋に続いて二之橋が架かっています。二之橋は、橋を渡ったところにあった毛利日向守屋敷に由来して、日向橋とも呼ばれていました。この付近の古川右岸(東側)は、南北に延びる三田台地の北端となっていて、左岸に比べだいぶせり上がっています。台地の上には明治時代には渋沢邸(栄一、敬三)、蜂須賀邸、三井邸、松方邸と屋敷が続いており、更に江戸時代に遡れば、大名屋敷が並んでいました。現在渋沢邸は見た会議所、蜂須賀邸はオーストラリア大使館、三井邸は綱町三井倶楽部、松方邸はイタリア大使館となっています。三井倶楽部内は三田台地の斜面に面していて、崖下には湧水池を利用した日本庭園があります。そして名水といわれた「渡辺綱の産湯の井戸」が残っているといいますが、残念ながら一般非公開です。

小山橋から

 二之橋の次に架かる小山橋は、もともと私設橋だったのが、1955年に区に移管されたといいます。橋の前後の古川沿いは、新広尾公園となっていて、ここにも護岸を一部きりとった親水スペースが出来ています。しかし、川の水は淀んでいるし、高速道路が多い被さっていて、やはりとても水に親しむ雰囲気ではありません。

一之橋と麻布十番

 小山橋の次は一之橋です。橋のたもとでは、がま池や宮村町からの流れや薮下からの流れをあつめた水路が合流していました(→記事「【5-12】芋洗坂〜麻布十番の流れ(吉野川)と柳の井戸」参照)。左岸の護岸からは湧水も流れ込んでいます。
 明暦の大火以後の江戸の都市改造に伴い、1675年、古川河口の金杉橋から一之橋までの区間を掘り下げ、川幅を広げて通船を可能とする改修工事がされました。沿岸には河岸(荷揚げ場)がつくられ、麻布十番には川から分けられた堀留がつくられました。
 一説によれば、古川の下流は先に触れたようにもともとは現在よりもう少し南寄りの入間川のルートが本流で、この工事により本流が付け替えられたとされています。金杉橋から一之橋の区間が「新堀川」とも呼ばれるようになったのは、この付け替えで新たに水路が作られたからだといいます。
 ちなみに「麻布十番」の地名は、この工事の際に工区にふられた番号のうちのひとつで、工事の完了後も長い間十番の標識が残っていたことに由来します。更にこの後1698年、白金御殿の造営に伴い、古川はさらに四の橋まで掘り下げられます。

一の橋下流から新堀橋

 古川は一の橋で再度90度曲がり、東へと流れていきます。ここより下流は汽水域(ここまでは感潮域)となり、常に海水の混ざった水が流れています。何となく潮の香りがするような気もします。奥に見えるのは新堀橋です。新堀橋の手前では、麻布狸穴町からの流れが合流していました(→「【5−13】麻布狸穴町の支流(青山上水排水路?)」参照)。

中之橋と赤羽河岸
 
 新堀橋の次の中之橋から上流方向を見た様子です。川幅は、16~17mほど。水はすっかり淀んでいます。護岸には潮の満ち干きの跡があり、川というより運河のような印象です。ここより先河口までは、高速道路が完全に流路と重なって蓋のようになってしまっています。
 中ノ橋と赤羽橋の間はかつて赤羽河岸と呼ばれる河岸でした。川の南側は明治初期には造兵廠が出来、造兵廠の荷揚げ場として倉庫が並びました。造兵廠が移転した大正期には青物市場が設けられています。
 造兵廠が移転した跡地は広大な空地となり、「有馬が原」とも呼ばれました。現在の都立三田高校付近には「有馬が池」と呼ばれる池があり、永井荷風「日和下駄」にも描写されています。池は三田台地の北東の斜面下にあり、湧水池だったと思われます。同じ敷地内には化け猫退治の芝居で知られる猫塚もあって、古墳跡だったとも、話題作りにわざと作った塚だったともいわれています。

赤羽橋と新堀河岸

 中之橋の次に架かる「赤羽橋」は、国道1号線が古川を渡る橋であり、交差点名や地下鉄の駅名としてもその名を知られています。ただ、橋そのものは高速の下に隠れ、あまり存在感はありません。古川はこの辺りでは「赤羽川」とも呼ばれていました。「赤羽」はもともとは「赤埴」だったとも言われています。「埴」は、埴輪の素材となるような、粘土質の土が取れる場所につけられることが多い地名です。川の左岸側に迫る芝台地の裾野には芝丸山古墳があり、古くから人が住んでいたことがわかります。
 赤羽橋から将監橋の間の南岸は「新堀河岸」という河岸でした。江戸期は薩摩藩の荷揚げ場として利用され、薩摩河岸とも呼ばれていたといいます。川沿いには舟運を利用した、木材、石材、薪炭などの商店が並んでいたそうです。現在でも赤羽橋下流側の右岸には現役の船着場があり、荷揚用のクレーン(写真奥の赤い柱)が設けられています。

芝園橋

 赤羽橋の次には芝園橋が架かっています。現在の橋は1984年に架け替えられたものですが、大正15年の架橋時の親柱がそのまま残されています。

将監橋と桜川合流地点

 将監橋の北側では桜川が合流していました。桜川は関東大震災後の復興計画のなかで暗渠化されましたが、現在でも古そうな石組みに囲まれた、暗渠の合流口が残っています。桜川は江戸時代のいわゆる下水(上水でない市内水路)で、遡って行くと神谷町から溜池、赤坂を経て、四谷三丁目の鮫河谷にいきつきます。こちらについては別の章を設けて紹介することとします。

瘡守稲荷

 将監橋の北西の袂には、通元院という芝増上寺の末寺があります。一間普通の住宅のような目立たないお寺ですが、その入り口に瘡守稲荷(かさもりいなり)大明神の祠があります。皮膚病治癒の稲荷社です。祠の前の石塔は、元禄7年(1694年)造立の納経石塔で港区の文化財となっています。

金杉橋の船溜まり

 古川は金杉橋近辺では「金杉川」とも呼ばれていました。川面には釣り船や屋形船がたくさん繋留されています。川の南側にあたる金杉町は、明治初期までは漁師町で、江戸城へ献上する魚も獲られていたそうです。

船宿

 金杉橋下流側の左岸(北側)はかつての町名を湊町といい、現在では船宿が何軒か並んでいます。写真はその中の一軒、「縄定」で、もともとは漁師を営んでいたそうです。船宿の屋形船はここから隅田川や東京湾へと繰り出していきます。

新浜橋

 浜松町のJR線東側、新浜橋から見た古川です。ここにも船が繋留されています。古川の左岸側は明治初期より東京瓦斯の敷地となっていて、現在も東京ガスの本社が建っています。そして、右岸側は明治中期に芝浦製作所の工場が出来ました。こちらも現在敷地がそのまま東芝の本社となっています。

浜崎橋ジャンクション

 川を覆っていた首都高速道路は浜崎橋ジャンクションで左右にわかれ、古川はようやく空を取り戻します。が、ここはすでにほとんど海です。芝浦運河が南側から合流しています。

古川河口
 
 古川は新浜崎橋の東側で、東京湾に注ぎ込んでいます。河口の直前にはもうひとつ、小さな橋がかかっていますが、名前はわかりません。海の向こう側にはレインボーブリッジが見えます。水源の新宿御苑から11km、渋谷駅で地上に姿を現してから7km、天現寺橋で古川と園名を変えてからだと4.4km。今でも新宿御苑にふった雨水、わき出した湧水の一滴がここまでたどり着くことはあるのでしょうか。

 以上で、「東京の水 2005 Revisited 2015 Remaster Edition」、"第1部 渋谷川水系の川と暗渠をたどる" を終わりにしたいと思います。2005年取材当時の写真を中心に、「東京の水」オリジナル版の1997年取材時の写真や、最近の再取材写真を交えてここまで渋谷川・古川水系を追ってきました。たった10年、されど10年。変わらない風景もあれば、ずいぶんと変った風景もありました。そしてこれからも東京の水をとりまく風景は変わっていくことでしょう。ひとつの時期の記録として今一度最初から読み返していただければと思います。
 ひきつづいて第2部では、将監橋で合流していた桜川の水系を、渋谷川・古川水系の姉妹編として取り上げていきます。桜川を上流に向かって辿っていくと、いきつく水源は渋谷川の水源のすぐ近くとなり、都心の南半分を反時計周りにぐるっと辿るかたちになります。



2016/11/21

【5−14】古川(1)天現寺橋〜古川橋

(※写真は特記ない限り、2005年撮影です。現状とはだいぶ異なっている区間もあります)

 ここまで渋谷川の水系を本流、支流にわたり紹介してきましたが、最後に天現寺橋より下流、「古川」と呼ばれる区間を河口まで追っていきます。この区間は全区間、暗渠化はされていません。最初に流域の段彩図を。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

天現寺橋と笄川合流口

 渋谷川は広尾の天現寺橋で笄川を合流します(→「【4−1】笄川水系の概要」参照)。そしてこれより下流、川沿いは渋谷区から港区に変わり、渋谷川も古川と名前を変えます。川沿いに道がある区間はほとんどないので、ここから先、主に古川に架かる橋の上から、川の様子を見ていきます。
 天現寺橋から狸橋の間は他の区間には見られない護岸となっていて、右岸の慶応幼稚舎から木々がせり出しています。(※2016年現在再改修)以前は天現寺橋に平行してすぐのところに慶應橋が架かっていたといいます。

狸橋と三田用水白金分水合流口

 天現寺橋の次の橋は狸橋です。白金分水の章(→「【5−5】三田用水白金分水(3)下流部と分流の痕跡」参照)で触れた通り、狸橋の名は橋の袂にあった蕎麦屋が、狸に化かされて木の葉のお金で蕎麦を食べられた伝承に由来します。狸橋から下流方向を見ると、白金分水の合流口が望めます。四角く開いた合流口はかなり古そうです。橋の南側はかつては福沢諭吉邸となっていました。

私設橋「青山橋」

 狸橋に続いて、亀谷橋、養老橋と、人しか渡れない小さな橋が続きます。いずれももともとは私設橋だったそうです。そしてその次に架かる「青山橋」も明治時代に架けられた私設橋で、1930(昭和5)年に鉄筋の橋に架け替えられたものが残っているのですが、現在では両端が塞がっていて渡れず、トマソン状態となっています。

※青山橋は一帯の護岸改修により、2011年撤去されてしまいました。
(2011年撮影)
五之橋と白金三光町支流合流口

 青山橋のすぐ東側に架かる五之橋は、1935年(昭和5年)の竣工で、青山橋と並び、古川に架かる橋では数少ない戦前からの橋です。水色の鉄骨が印象的です。たもとでは白金三光町からの支流(→「【5−6】白金三光町支流」参照)が合流しており、丸い排水溝が口を開けています。

戦前の護岸

 狸橋から五之橋にかけては、戦前の改修工事でつくられた古い護岸がそのまま残っている区間が多く、川底も土がむき出しとなっているようで雑草が生えていたり、鴨が泳いでいたりと川らしさを何とかとどめています(2016年現在、改修工事中)。しかし、五之橋を過ぎるとやがて、首都高速2号線が川面に覆いかぶさってきます。

白金公園橋からみた白金公園の親水テラス

 四之橋の下流側、高速道路がちょうど川面に架かる付近には白金公園橋が架かっていて、白金公園に繋がっています。公園には「古川の水辺に親しめるように」ということで親水テラスが設けられていますが、高速道路に覆われた陰気な水面に親しもうなどという人は果たしているのでしょうか。

四之橋

 四之橋では、川面は完全に高速道路の下となり、昼でも薄暗く暗渠よりも殺伐とした雰囲気を漂わせています。北岸には1698年、白金御殿が造成され、その際将軍が船で御殿に来られるよう四の橋まで川底が掘り下げられ満潮時には汐が入るようになりました。流れる水を見る限り、現在はおそらくもう少し下流、古川橋付近までは感潮域のような印象です。なお、四之橋近辺では麻布本村町からの支流(→「【5−2】麻布本村町支流(竹ケ谷ツ支流)」参照)が合流していました。

新古川橋から見た玉名川の合流口

 次の新古川橋はその名の通り、古川橋の上流側に1935年に新たに架けられた橋です。袂では、玉名川(→「【5−7】玉名川(2)樹木谷の支流と下流部」記事参照)が合流していました。現在でも暗渠の名残の合流口が残っています。

古川橋と新広尾町のスラム

 古川は水量の変化が激しかったせいか、川沿いは明治中頃まで空き地となっており、葦の生い茂る湿地となっていました。日清戦争が始まると川の南岸の空き地には板金やメッキ、鋳物といった町工場が並び、また沿岸の急速な都市化に伴い北岸沿いは明治末から大正期にかけてスラム化しました。スラムの立ち並ぶ、天現寺橋から一の橋にかけての川沿いの細長い区間は明治末には「新広尾町」となりました。
永井荷風の「日和下駄」の「第六 水」の章では古川橋近辺の様子が描かれています。
「溝川が貧民窟に調和する光景の中、その最も悲惨なる一例を挙げれば麻布の古川橋から三之橋に至る間の川筋であろう。ぶりき板の破片や腐った屋根板で葺いたあばら家は数町に渡って、左右から濁水を挟んで互にその傾いた廂を向い合せている。春秋時候の変り目に降りつづく大雨の度ごとに、芝と麻布の高台から滝のように落ちてくる濁水は忽ち両岸に氾濫して、あばら家の腐った土台からやがては破れた畳までを浸してしまう。雨が霽れると水に濡れた家具や夜具蒲団を初め、何とも知れぬ汚らしい襤褸の数々は旗か幟のように両岸の屋根や窓の上に曝しだされる。そして真黒な裸体の男や、腰巻一つの汚い女房や、または子供を背負った児娘までが笊や籠や桶を持って濁流の中に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れてくる雑魚を捕らえようと急っている有様、通りがかりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の下に、或時はかえって一種の壮観を呈している事がある。かかる場合に看取せられる壮観は、丁度軍隊の整列もしくは舞台における並大名を見る時と同様で一つ一つに離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、此処に思いがけない美麗と威厳とが形造られる。古川橋から眺める大雨の後の貧家の光景の如きもやはりこの一例であろう。」
現在では川沿いにはビルが建ち並び、川面は高速道路に覆われ、南岸にあった町工場のほとんどは高度経済成長期~オイルショック期に郊外移転して当時を彷彿させるものはなにも残っていません。
 古川橋下流側の右岸には、暗渠の合流口が開いています。こちらはかつて三田の寺町の湧水や下水を集めていた支流の暗渠です。合流口の周辺を見ると、護岸が作られた頃には開渠だったかのような痕跡が見えます。

支流の水路敷

合流口の真上には、水路敷が細長い空地として残っていました。(現在消滅)。
恵比寿駅付近より東に向かって流れていた古川は古川橋を過ぎるとほぼ直角に曲がり、しばらく北進して流れます。これより下流、河口までは次回の記事とします。