2016/09/29

【5-11】藪下の支流

(※写真は1997年、2005年、2016年の撮影です)

 前々回のがま池からの流れ、前回の麻布宮村町に残る湧水からの流れに引き続き、六本木〜麻布の水路跡を追っていきます。今回とりあげるのは現在の六本木ヒルズの南西側〜南側にかけて流れていた細流です。流域は麻布宮村町の字「藪下」と呼ばれる地域でした。
 かつてこの一帯は谷底となっていて、湧水が各所でわき出し流れをつくって、がま池などからの流れとともに麻布十番の吉野川(赤羽川)となり、古川(渋谷川)に注いでいました。現在は地形が大きく改変され、その流路を辿ることはほとんど不可能ですが、古地図から流路を再現すると、下の地図のようになります。
 (地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

玄碩坂と失われた風景

 再開発で六本木ヒルズが出来る前は、テレビ朝日通りから「玄碩坂(げんせきざか)」と呼ばれる急な坂が谷底まで下っていました。写真は1997年の玄碩坂の様子です。
 (1997年撮影)

 町は六本木ヒルズの造成により家々はおろか、道路や地形も大きく改変されてしまいました。現在では玄碩坂が通っていたルートとだいたい同じ位置に「さくら坂」が通っています。坂の傾斜を緩やかにするためか、かなり盛り土がされているようです。
 (2005年撮影)

 玄碩坂の西側~南側は急な斜面となっていて古い家屋が並び、風情のある石段がいくつか、宮村町の丘の上から下っていました。写真は階段のひとつです。
 (1997年撮影)

 かつての風景のほとんどが失われた中で、さくら坂公園の西側の斜面には、下半分が埋まった階段が遺跡のようにひっそりと残っています。
 (2005年撮影)

 1997年当時、一体は六本木と麻布十番という繁華街の喧騒からは離れ、開発を控えて、どこかうら寂しく静かな街となっていました。坂沿いの家や路地、駐車場にはあちこちに猫が見られました。六本木ヒルズの建設時、これらの猫たちはどこに行ったのでしょう。
 (1997年撮影)

 川はもともと側溝程度のものだったようで、1997年時点でも水路自体の痕跡はありませんでした。古い地籍図を見ると、川の流れは玄碩坂の更に北から始まり、谷底では南側にあたる道路沿いと、北側の崖沿いの2本に分かれて平行して流れていたようです。写真奥に見えるのが北側の崖です。
 (1997年撮影)

金魚撩乱とピーターパンの街

 谷底一帯はかつて字藪下と呼ばれていました。江戸時代より湧水による池が点在し、「岡場所」(私娼窟)がありました。かなり悪質なものだったらしく江戸後期、天保10年(1839年)にはぼったくられた久留米藩士達が取り壊しを行い、以後岡場所はなくなったというエピソードが残されています。
(※2016年追記:長いこと麻布の地域情報を発信されている「Deep Azabu」さんによるち、この岡場所はもう少し南東の、がま池からの流れが合流する付近にあったようです。:「藪下の岡場所「鎌倉屋」
 一方入れ替わるように、江戸後期から下級武士たちの副業として、湧水を利用した金魚養殖が始まりました。明治初期の地図にはあちこちに湧水を利用した金魚の池が描かれています。
 (五千分の1地形図「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」および
「東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下渋谷村近傍」(明治16年)を結合)

 岡本かの子の1937年の短編「金魚撩乱」では、冒頭に界隈の風景が描写されています。
「崖の根を固めている一帯の竹藪の蔭から、じめじめした草叢があって、晩咲きの桜草や、早咲きの金蓮花が、小さい流れの岸まで、まだらに咲き続いている。小流れは谷窪から湧く自然の水で、復一のような金魚飼育商にとっては、第一に稼業の拠りどころにもなるものだった。その水を岐にひいて、七つ八つの金魚池があった。池は葭簾で覆ったのもあり、露出したのもあった。逞ましい水音を立てて、崖とは反対の道路の石垣の下を大溝が流れている。これは市中の汚水を集めて濁っている。」
この一節を読むと、冒頭の地図に記した2本の流路のうち、北側のほうから金魚池に水を引き、余水や生活排水は南側の道沿いの水路に流していた様子が伺われます。
 再開発のときまで残っていた金魚店「原安太郎商店」は、ちょうど岡場所が取り壊された翌年の天保11年(1840年)創業で、「はらきんの釣り堀」として親しまれていました。金魚屋の主人は現在ヒルズに建つ高層マンションに住んでいるそうです。写真はかつて通り沿いに掲げられていたはらきんの看板です。
 (1997年撮影)

 はらきんの向かいの谷の南側斜面は、木の茂る大谷石の擁壁となっていて、かつては南側の水路がその下を流れていました。水路が失くなった後も、崖下には湧水が側溝を流れていました。はっぴいえんどのドラマー兼作詞家であった松本隆の1972年刊行の単行本「風のくわるてっと」に収められたエッセイに、この湧水が描写されています。
「坂を下りおわったところに養魚場がある。ここでも水は渇いた石畳に叩きつけられる驟雨の叫びに似た音であたりをいっぱいにふくらましている。都市の近代化が置き忘れていったこの一画は、砂鉄が磁石によってある一点に引き寄せられるように、水の重いしずくのさやめきに満たされている。というのは、その先に行けば、やはり水に関するエピソードにぶつかることができるからである。ちょうど苔でぬめぬめと光っている石垣の下に、「湧き水を汚さないようにしましょう」と書かれた小さな立て札がたてかけてある。おまけにその綺麗な水の中には金魚まで放し飼いになっているのだ。何と風流な。きっと近所の人が世話を焼くのだろうなどと、つい道端にしゃがみ、その中を覗きこんで時間を潰してしまう。そこには都市の偶然や錯覚を許す余地の無い人為的な神秘がある。」(「ピーター・パンの街」より)
 1991年に港区が刊行した書籍でも、道路の側溝をせき止め湧水を溜めたところに金魚が泳ぐ写真が掲載されています。1997年の時点でどうだったのか、残念ながら写真が見つからず不明ですが、湧水はまだあったように記憶しています。

坂の下、ニッカ池

 道は六本木高校(旧城南高校)の崖下で、ほぼ平坦になります。現在は崖の反対側はヒルズの敷地となって開けていますが、かつては塀に囲まれたやや殺伐とした風景でした。
 (1997年撮影)

 同じ場所の現在の様子です。奥に見える5階建てほどのビルだけが、今も当時と変わらず姿をとどめています。六本木高校の看板がある辺りの崖面からは、わずかであるが湧水が染み出して、道路の側溝に流れ出していました。かつて豊富だった湧水の痕跡なのでしょう。(※2016年現在、枯渇)
(2005年撮影)

  薮下の谷が六本木交差点方面からのびる芋洗坂の谷とあわさる辺りの北側、六本木ヒルズの敷地内には、「毛利庭園」があります。かつてこの場所は窪地となっていて湧水池がありました。江戸期には毛利家上屋敷となっていて、1702年には赤穂浪士のうち10名が預けられ、敷地内で切腹しています。
 その後明治期には中央大学創始者の邸宅「芳暉園」となります。先にあげた明治期の地図には、藪下の金魚池の北側に、大きな池を確認できます。戦後1952年には敷地はニッカウヰスキー東京工場となりました。この時代に池は「ニッカ池」と呼ばれるようになります。工場の稼働初期には敷地で地下水を汲み上げ使っていたといいます。また、池もじゅんさいが繁殖していたといいますから、当時は水質も良かったのでしょう。やがて周囲の開発により、池の湧水は枯れていきます。それでも池は残り、1977年にはテレビ朝日の敷地となったのちもニッカ池と呼ばれ続けていました。そして六本木ヒルズが造成された際、ニッカ池は防護シートで覆われて「埋土保存」され、その上に2003年に新たにつくられたのが現在の毛利庭園の池です。
 (2005年撮影)

 ヒルズの敷地の南側、現在「ゲートタワー」が建つあたりで、藪下の流れは芋洗坂方面からの流れと合流していました。この少し南から、ようやく川の痕跡が少しだけ見られます。写真の蔦に覆われた建物の左側、手前から斜めに不自然に入っていく細長い空地が見えます。これが流路の跡です。
 (2016年再撮影)

反対側に回りこむと、車止めの設けられた暗渠がはっきりと姿を現します。
(2016年撮影)

 次回はいったん芋洗坂からの流れへと立ち寄った後、この先古川に合流するまでの流れを追っていきます。