2016/05/18

【5-5】三田用水白金分水(3)下流部と分流の痕跡

(写真は特記ないかぎり2005年撮影のものです)

 三田用水白金分水の1回目の記事(→リンク先)では三田用水からの分水路と、自然教育園からの流れが合流するところまで、2回目の記事(→リンク先)では、伊達跡の支流と蜀江台方面からの支流をとりあげました。3回目となる今回は、古川に合流するまでの下流部をたどります。

 前回掲載した、かつての白金分水の流路図を再度みてみましょう。地図の中で水色となっているのが、現在暗渠や道路などとして、その痕跡を辿ることができる区間です。外苑西通りが首都高とぶつかり北に曲がる角、白金六丁目に、長めの水色のラインが続いているのがわかるかと思います。ここを辿っていきます。
(地図出典:「国土地理院地図切り取りサイト」地図にプロット)

暗渠の路地

 外苑西通りを横切り白金6丁目に入ると、曲がりくねった、みるからに暗渠の道が残っています。
(2015年再撮影)

 この区間は昭和初期に暗渠化され、幅1.6m、高さ2.2mほどの矩形の暗渠が下水道白金幹線となって地下に流れています。路面にはその当時に設けられたと思われる、立派な縁石で囲まれたマンホールが点在しています。(※2016年現在は新しいマンホールに付け替えられ消滅。)
明治期の地図に描かれた流路と全く同じ位置に暗渠が続いています。暗渠の縁に沿って続く大谷石はかつての護岸の痕跡と思われます。
燈孔

 暗渠上にはところどころ、縁石に囲まれた蝶番付の小さな鉄蓋があります。これは暗渠の中での作業時に灯を吊るすための「燈孔」で、こちらも昭和初期の暗渠化時に設けられたものです。
(2015年再撮影)

 暗渠の路上に緑がはみ出しています。左側の低い擁壁の奥、駐車場となっているところは、かつて神社でした。(※2016年現在はマンションになっています。)

道路沿いのドブ

 しばらく進んでいくと暗渠の路地は直線の道路に合流します。暗渠自体は道路の下に幅2m弱の下水となって通っていますが、よくみると道路沿いに蓋をした結構幅のある側溝が並行しています。いわゆる「ドブ板」をわたした「ドブ」の痕跡で、都心では珍しいのではないでしょうか。
ところどころ、鉄板が渡されていて中が覗けるようになっています。写真の位置ではドブの幅がやや狭くなっています。

白金三光町

 やがて暗渠は旧白金三光町の白金北里通り商店街と交差します。商店街は木造の長屋や看板建築の商店が並び下町風な風景が残っています。
(2015年再撮影)

並行する分流

 ここで、一部に残る、白金分水本流に並行する分流を見てみます。冒頭の地図をみていただくと外苑西通りと恵比寿通り(白金北里通り)の交差点付近、本流の北東側に並行する水路が描かれていると思います。こちらは一部の区間が路地として残っています。
 下の写真はその区間の始まりです。外苑西通りからそれて、曲がりくねった細い路地が分かれています。
(2015年再撮影)

 路地の入口には立派な鉄の縁取りが設けられた大きなマンホールがあります。隣接する家がその上にはみ出しています。
(2015年再撮影)

 蛇行する路地の路上には苔が生し、湿度の高さを伺わせます。こちらの分流は、恵比寿通りを超えるとその先の痕跡は不明瞭となります。
(2015年撮影)

北里研究所

 再び本流に戻ります。写真は三光通りを越えた先の暗渠の様子です。この辺りの水路は先ほどの分流を含めて幾筋かに分かれており、その流路や本数も時期によって異なっていたようです。写真の付近は明治から大正にかけては湿地となっていて、北里研究所の北側あたりは沼となっていたようです。
 北里研究所は1893年(明治26年)日本初のサナトリウム(結核療養所)として開設された「土筆ヶ岡養生園」を前身とする病院です。付近の土地は明治初期には福沢諭吉の所有となっていて、彼が自ら所有する土地を北里柴三郎に提供し、養生園がはじまったとのことです。

狸橋の合流口

 水路は狸橋の下流側で古川に合流します。戦前の古川改修時に設けられた古い護岸の一角に、暗渠の合流口が開いています。現在では暗渠を流れる下水が大雨でオーバーフローした時以外は、ここから水が流れ出ることはありません。(※護岸は現在改修され新しいものになっています。)

狸橋と狸蕎麦

 白金分水が古川(渋谷川)に合流するそばに架かる狸橋は、白金分水の合流口の脇にあった蕎麦屋が狸に化かされて木の葉のお金で蕎麦を食べられた伝承に由来します。江戸後期の地図を見ると、古川に架かる橋と、そのたもとの「猩蕎麦」の敷地が確認できます。
(地図出典:江戸切絵図 目黒白金辺図(1849−1862))

 蕎麦屋は明治初期に廃業したのち、福沢諭吉に買い取られ別荘として使われるようになりました。また、白金分水には直径3.5mほどの水車が架けられており、こちらも福沢諭吉が買い取り経営しました。当初はこの水車を「広尾水車」と呼んでいましたが、のちに渋谷川の天現寺橋上流側に「広尾水車」を設置するにあたり、こちらの水車は「狸そば水車」と名称を改めたといいます。よほど「狸蕎麦」に思い入れがあったのでしょうか。

 以上で白金分水のパートは終了です。最後に地形段彩図を再掲します。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

次回は白金分水の東側の谷筋を流れていた白金三光町支流(仮称)をとりあげます。



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