2016/04/27

【5-4】三田用水白金分水(2)伊達跡の支流と蜀江台方面からの支流

 三田用水白金分水の1回目の記事(→リンク先)では三田用水からの分水路と、自然教育園からの流れが合流するところまでとりあげました。2回めとなる今回は、中流部で合流していた支流について辿っていきます。
 中流から下流にかけての白金分水は、流域の水田に水をもたらすため、いくつかに分かれて流れており、また他の谷からの流れも合流していました。それらの流れを、公図などをもとにプロットしてみたのが下の地図となります。地図の中で水色となっているのが、現在暗渠や道路などとして、その痕跡を辿ることができる区間、青が痕跡の消滅している区間、点線は図面では確認できなかったものの水路があったと推定される区間です。
(地図出典:「国土地理院地図切り取りサイト」地図にプロット)

 こうしてみると、白金分水本流の中流部は、道路の下敷きとなってしまい、辿ることができないことがわかるかと思います。一方そこに合流している流れの一部は、今も痕跡を残しています。まずはそれらのひとつ、旧地名「伊達跡」に発していた流れを辿ります。

伊達跡の支流

 恵比寿ガーデンプレイスの東側となる恵比寿三丁目一帯は、かつては伊達町、その前は伊達跡と呼ばれていました。その名は、江戸時代中期以降、この一角に伊予宇和島藩の伊達家が下屋敷を構えていたことに由来します。屋敷の敷地はほぼ正方形となっていて、その名残は今も条理上の道路区画として残っています。その南半分を貫くように、東に向かった谷が通っています。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

窪地の始まり

 ガーデンプレイスのすぐ北東側、谷底を通る道の起点です。道が途中から窪んで谷が始まっており、緩やかに下っていっています。
(2016年再撮影)

深い谷

 進んでいくと、どんどん谷は深くなっていきます。写真は谷を横切る道の様子です。かつて屋敷の建物は、谷の北側にあり、南側に拓ける谷を望むような配置になっていました。古地図などでの確認はできませんでしたが、谷沿いはおそらく池などの庭園になっていたのではないでしょうか。
 明治時代には、屋敷があった一帯は字名を「伊達跡」と名付けられました。明治後期には、谷を挟む丘の上(主に南側)に多くの美術家が居を構え、画家村とも呼ばれていたそうです。
(2016年再撮影)

現れる水路跡

屋敷跡の区画を出る手前付近で、とうとう水路の跡が姿を現します。住宅の裏手を東へと抜けています。
(2016年再撮影)

水路跡のスキマ

 屋敷の東辺と重なる道から、先ほどの水路跡を逆方向にみたところです。少し凹んだ、細長い空地となっています。
(2016年再撮影)

閉ざされた空間

 道を渡ると、路面から建物1階分低いところに、水路跡がよりはっきりとした形で現れます。降りることはできず、閉ざされた空間となっています。
(2015年再撮影)

伊達前

 家々の隙間に、細長い未舗装の空地がカーブを描いています。この水路跡が通る伊達藩の屋敷の東側は、明治前期以降、「伊達前」の字名で呼ばれていました。1928(昭和3)年の渋谷区発足時に、「伊達跡」と「伊達前」は合併して伊達町となり、1966年の住居表示実施に伴い恵比寿3丁目と改名されるまで、その名で親しまれます。
(2015年再撮影)

 水路跡は、外苑西通り沿い、かつての計画道路の名残(前回記事ラスト参照)につきあたるまで続いています。写真は上流方向を見たところです。こちらも柵で閉ざされていて、水路上に立ち入ることはできません。かつてはこの付近で白金分水の本流に合流していたようです(冒頭の地図参照)。

(2015年再撮影)
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続いて、伊達跡支流とは首都高速目黒線を挟んで反対側に残る水路の名残を見てみましょう。こちらには、自然教育園の方(南)からの流れと、東側からの流れの痕跡、そしてそれらが合わさったのちに白金分水の分流に合流する区間の痕跡が残っています。冒頭の地図の該当箇所を再掲します。丸で囲んだエリアとなります。

蓋掛けの側溝

 まずは自然教育園方面からの流れを辿ります。こちらはもともとは自然教育園からの流れからの分流であった可能性もありますが、地図では確認できませんでした。川跡の道路には、変な位置に延々と蓋掛けの細い側溝が続いています。・
(2005年撮影)

石の蓋をされた暗渠

 この側溝をたどっていくと、石で蓋をされた暗渠が出現します。おそらく白金分水からの分流の痕跡で、側溝の流れはここで合流していたと思われます。暗渠はここからトタン塀の裏側へと続いています。
(2005年撮影)

 トタン塀の先はコンクリートの蓋がされています。更にその先は民家の裏手に入ってしまい様子がわかりませんが、冒頭の地図のように、かつては白金分水の本流に合流していたと考えられます。
(2005年撮影)

蜀江台方面からの支流

 一方で、この石蓋暗渠の手前では、東側からの道に、別の蓋掛けの溝渠が続いてきています。こちらもかつての水路の名残です。
(2005年撮影)

道の真ん中の井戸

 溝渠を辿っていくと道はどんどん、細くなり、道の真ん中にポンプがつけられた掘抜き井戸が出現します。
(2005年撮影)

 この先を辿って行くと、白金台方面に向かう外苑西通りの坂道に行き着きます。通りが抜ける場所は、もともとは白金分水の流れる谷の枝谷となっており、おそらくそこには流れがあったと思われます。そして、井戸のある水路跡は、流れから、水田へと水を引き入れる水路であったのではないかと思います。
外苑西通りの谷の東側の丘は、もともとは卒古台と呼ばれていたようですが、明治期には中国の蜀江にちなんで蜀江台と呼ぶようになりました。今も丘に上る「蜀江坂」にその名が残っています。

 次回も白金分水の本流と傍流を辿っていきます。


2016/04/17

【5-3】三田用水白金分水(1)上流部と自然教育園の流れ

(※写真は特記のない限り2005年撮影です)

 前回に引き続き古川(渋谷川下流)の支流を取り上げていきます。今回と次回は三田用水白金分水の暗渠をたどります。まずは地形地図から。

(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

白金御殿と白金上水

 三田用水白金分水は、もともとは、古川北岸の港区南麻布4丁目付近にあった「白金御殿(別名麻布御殿)」のために引かれた「白金上水」と呼ばれた上水路でした。白金御殿は1698年(元禄11年)、幕府の薬草園「麻布薬園」があった場所に五代将軍綱吉の別荘としてつくられました(薬園はのちに小石川に移転し、現在小石川植物園となっています)。このとき三田村字銭瓶窪(目黒区三田1-6付近)で三田上水から取水して白金上水がつくられました。上水はもともとあった小川の谷筋を利用して天現寺橋付近まで流れ、渋谷川を掛樋で越えていたと推定されています。しかし白金御殿はわずか4年後の1702年に家事で焼失し、これにともない白金上水も廃止されてしまいました。
 その後三田上水が1722年に廃止され、1724年(享保9年)農業・灌漑用水として復活した際に、白金上水もかんがい用の用水路「白金村分水」(白金村・今里村・三田村分水とも)として復活しました。分水は90センチ四方の分水口から取水され、谷筋を流れて流域の水田を潤し狸橋の下流側で古川に合流していました。流域の都市化により、水路は昭和初期に大部分が暗渠化されました。

長者丸踏切

 長者丸踏切のあたりは目黒区内を山手線が通過する唯一の区間です(目黒駅は品川区で、目黒区内に山手線の駅はない)。踏切の西側は台地となっていて、その上を三田用水が流れていました。白金分水は現在の日の丸自動車学校(赤い大玉のあるビルで著名)のあたりから、この踏切の辺りに落とされていました。このあたりの地名は目黒区三田で、遠く離れた港区三田と同じ地名です。かつては両者とも武蔵国荏原郡御田郷(みたごう)に属しており、その名残といえます。
(2009年撮影)

今も残る水路跡

 水路は踏切周辺から恵比寿ガーデンプレイスの南側に続く谷底を流れていました。かつては、三田用水からの分水地点より北側の山手線の西側、三田2丁目付近より続く谷があり、もともとはそちらから川が流れていたようです。この谷は山手線の線路で分断されたり、ヱビスビールの工場の土地造成によって不明瞭になっていますが、一部は窪地として残っています。
 一帯は渋谷区(恵比寿)と港区(白金台)の境界線に品川区(上大崎)と目黒区(三田)が細長く食い込む複雑な区界となっています。その一角の住宅地の裏に、ひっそりと暗渠が残っています。

 山手線の内側でこれだけ暗渠っぽい空間もなかなか少ないのではないでしょうか。目黒区と品川区それぞれの辺境となっていることが、暗渠の残存に関係しているのかもしれません。

 暗渠は途中から、品川区と目黒区の境界となります。先ほどの暗渠の延長線上に砂利道があり、一見これが暗渠に見えますが、実際にはこの道の南側に平行して民家の裏手を下水道となって抜けています。

区界に残る水路敷

 下水道台帳を見ると、ちょうど区界の位置に下水道が通っており、今でも「水路敷」として扱われていることがわかります。水路敷は途中で区界を離れて斜めに道路に合流していきます。
(地図出典:東京都下水道台帳)

 水路敷が道路に出る場所では、アスファルト舗装の道路敷が不自然な形になっていてかつての流れの痕跡を残しています(右側手前から暗渠が合流)。ここから首都高速目黒線までの間、暗渠は今度は渋谷区と品川区の境界線になってます。ここは二つの区が接する唯一の場所となっています。

都電恵比寿長者丸線

 なお、川と並行した南側には一時期、都電恵比寿長者丸線が走っていました。この路線は1911年(明治41年)に開通しました。天現寺橋で渋谷方面からの路線と分岐し、ヱビス長者丸で終点となる短い路線でしたが、もともとは目黒不動を経由して川崎まで延びる予定だったそうです。1944年(昭和19年)には戦時下の不要路線として廃止されてしまいました。こちらも川跡と紛らわしいですが痕跡の道路が残っています。

長者丸

 流路の南側に品川区が舌状に他3区に食い込んでいる上大崎2丁目一帯は、今でも旧町名の「長者丸」で呼ばれています。この地名は南北朝時代に「白金長者」と呼ばれる裕福な豪族の屋敷があったことに由来すると言われています。一説には白金長者とは14世紀末からここに住んでいた柳下家の開祖柳生上総介の異名で、彼が大量の銀(しろがね)を保持していたことから「白金」の地名の由来ともなったとか。また、笄川長者丸支流(リンク先参照)で触れたもう一つの「長者丸」と関連付けた伝承も残っています。
 長者丸は昭和初期には高級住宅街として開発され、実業家や政治家などが居を構えました。現在も多くのマンション名などにその名を残しています。

自然教育園からの支流

 その白金長者が屋敷を構えたと言われる自然教育園で湧きだした川も、かつて白金分水に合流していました。分水は暗渠化されてしまいましたが、こちらの川は今でも自然の姿を残して流れています。
 自然教育園は正式名称を「国立科学博物館付属自然教育園」といい、隣接の都立庭園美術館とあわせた一帯がかつての白金長者の館跡といわれています。江戸時代には増上寺領から高松藩松平家の下屋敷となり、明治6年には海軍弾薬庫(のち陸海軍弾薬庫)となりました。700mほど西には三田用水道城口分水(リンク先参照)で取り上げた目黒の火薬製造所があり、軌道で結ばれていました。
 大正2年には火薬庫が廃止されて「白金御料地」となり、戦後1949年に全域が天然記念物に指定され国立自然教育園となりました。
 園内の緑はあえて手入れをほとんどせずに自然のままに遷移させるという方針の下、武蔵野の自然林がそのまま残っています。また一方で現在の東京の気候に応じ植生が少しずつ変ってきているようです。写真は園内中央の水生植物園です。草が伸び放題で生い茂り、湿生植物があちこちで花を咲かせ、まるで高原の湿原の一角にでもいるような錯覚をおこします。

3つの水源

 園内の谷は3つに枝分かれしていて、それぞれが湧水源となっています。西の谷頭は「水鳥の沼」、中央の谷頭は「ひょうたん池」となっていて、この2箇所からの水が水生植物園の池に集まっています。ここから流れ出した小川は湿地帯を通り、園内東側の谷に流れる「サンショウウオの沢」からの水をあわせ、敷地の外に流れ出しています。

水鳥の沼

 水鳥の沼は西の谷頭を堰き止めてつくられた沼です。現在では湧水はほぼ涸れてしまい地下水をポンプアップして維持しているといいます。

敷地を貫通する道路計画と首都高目黒線

 水鳥の沼のすぐ西側には隣接して首都高速目黒線が通っています。かつて、関東大震災の復興計画の一環として、敷地内を貫通する幅25mの道路が計画されました(昭和2年公示「大東京都市計画道路網」)。この計画は戦後にも引き継がれ、途中から首都高速目黒線の計画に姿を変えます。しかし、園内の貴重な自然の保護への声が強まり、その結果、敷地西側を迂回し、建設されることに落ち着きました。下の地図は終戦直後に刊行されたものですが、自然教育園の敷地を通り抜ける道路計画が点線で記されています。
(地図出典:「東京都区分図港区詳細図」日本地図株式会社(1947年))

水生植物園への小川

 水鳥の沼からは、水生植物園の池に向かって小川が流れ出しています。途中あちこちから、じわじわと湧水も加わっているようです。

水生植物園

 水生植物園の池には、隣接するひょうたん池からの水も流れ込んでいます。ひょうたん池も谷頭を堰き止めてつくられた池で、こちらは自然の湧き水が水源となっています。水は池の底から湧いているといわれています。

湿地の小川

 水生植物園の池の北東には湿地帯があり、池から流れ出した小川はここを通って園外に流れ出しています。途中で園内東の「さんしょううおの沢」からの小川が合流しています。さんしょううおの沢沿いには蛍が生息し、またカワセミが繁殖しているとのことですが、現在は倒木が多いという理由で立ち入り禁止となっており、流れに近寄ることはできません。
(2015年再撮影)

土塁

 川が園外に流出する地点には500年ほど昔につくられた土塁が横切っていて、川はその下をくぐっていく形になっています。もともとはこの土塁で池の水量を調節していたようです。園内に設置された説明版に詳しい紹介が記されています。

教育園北側に残る計画道路の痕跡

 土塁の外側です。小さな児童遊園があり、奥に自然教育園の門があります(こちらは出入りはできません)。この遊び場は、先に触れたかつての計画道路の痕跡です。

 現在の地図と、先ほどの終戦直後の地図を並べてみました。ちょうど道路計画があった場所が、緑地となっていたり、道幅が不自然にはみ出して太くなっていたりと、途中まで作られていた計画道路の名残が今でも残っていることがわかるかと思います。

 自然教育園からの小川は、この付近で白金分水と合流し北東へ向かって流れていました。ここから先の紹介は次回とします。

(つづく)