2016/02/03

【4−3】笄川長者丸支流

(※今回記事については、写真の遺失等により、大部分の写真が2016年再撮影のものとなっています。)

 今回は、青山橋のところで笄川本流に合流していた支流を辿ります。この支流は、笄川本流の南西側、「長者丸」と呼ばれた台地をひとつ隔てた谷を流れていましたことから、ここでは仮に「長者丸支流」と呼ぶことにします。まずは地図を。青の点線が、かつて川が流れていたルートとなります。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

長者丸の由来

 「長者丸」は14世紀後半に、ここに「渋谷長者」もしくは「鹿谷長者」と呼ばれた富豪が居を構えていたとの伝説に由来する地名で、現在でも台地の中央を抜ける「長者丸通り」にその名が残っています。一方で、長者丸通りに面する船光稲荷には、船の名が由来だとする伝承も伝わっているといいます。

「船光稲荷神社由緒書によると、船光稲荷神社にはこのような伝説が残されています。かつてこの地域は広大な入海でした。あるとき長者丸という船が暴風雨に遭い、まさに沈没する寸前のところ社殿より五色の御光が射し、そのご加護により難を逃れることができたそうです」
(引用:「赤坂青山地域情報誌」第11号(港区赤坂地区総合支所協働推進課刊)より)

 船光稲荷神社が勧請された時期は不明ですが、室町期とも江戸前期ともいわれているようです。長者丸の台地上は標高32m程度、一方、笄川や長者丸支流の流れる谷底の標高は20m前後と、高低差が10m以上もあり、いかにも入江になりそうな地形ではあります。ただ、かつて起きた海面上昇は縄文海進で+10m以下、平安海進で4〜5m程度ですから、少なくとも神社が勧請されて以降、谷が入江になったことはなさそうです。
 なお、同じ渋谷川水系である三田用水白金分水(後日とりあげます)沿いにも「長者丸」の地名が残っており、こちらも室町時代に居を構えていた白金長者に由来するとのことです。

最上流部の痕跡

 長者丸支流の主水源は深い谷の始まる南青山3-6近辺と思われますが、水路は更にその上流の浅い窪地を青山通りにつきあたるところまで遡っており、明治後期の郵便地図や、大正初期の地籍図にてそのルートを確認できます。この区間は常時水が流れていたというよりは、もともと降雨後のみ水が流れるところに、都市化後に人工的につくられた排水路と思われます。現在では大部分が消滅していますが、一部の区間は川跡の雰囲気を残した路地となっています。
 痕跡は青山通りから空き地や建物の隙間となって続いています(その下には下水管が通っている)が、明確に確認できるのは下の写真の区間です。青山通りから80mほど奥に入ったこの一帯は浅い窪地となっていて、すぐ傍には銭湯「清水湯」もあります。
 (2016年再撮影)

近づいて路上をよく見ると、かつての水路の護岸が埋まっているのが確認できます。
 (2016年再撮影)

 路地から先は少しだけ車道に沿った後、住宅地の中へ入り込みいったん消滅してしまいます。写真の手前、車道の左端から、奥のマンションの真新しい通路にかけてがちょうどかつての流路の位置にあたります。
(2016年再撮影)

 次に流路跡として確認できるのはこちらの路地。奥から手前に向かって水が流れていました。
(2016年再撮影)

 振り返って下流方向を見たところです。横切る道路の向う、ガードレールの先が落ち込んでいるのが判るかと思います。
(2016年再撮影)

谷戸のはじまり

 ガードレールから見下ろすと、ずいぶん落差があって、深い谷戸が始まっています。そして、崖沿いには細長く荒れた土地が続いています。かつて2本に分かれ平行していた流路の一つです。

原宿村飛び地の水田

 20mほど左側(北東側)には、急に下る道が先ほどの荒れ地と平行するように続いています。道の右側には年季の入ったコンクリートとパイプの柵が残っています。こちらにはかつてもう一本の流路がありました。
 谷戸の両縁に沿ったこの二つの川筋の間には、本流と同じく原宿村の飛び地の水田がありました。水田が拓けるということは、かつてはそれなりに川の水量があったか、もしくは谷が湿地状になっていたということでしょう。ただ、こちらは本流よりも早く明治中期には水田はなくなり、住宅地となったようです。水量は少なかったり、早い時期に枯れてしまったのかもしれません。

下水道台帳にみる2つの流路

 下水道台帳を見ると、二つの流路の姿がはっきりとわかります。茶色のラインが下水道です。2つの流路のいずれも暗渠化により下水道となっていることがわかります。南側、先ほど荒れ地として見えた崖下の暗渠は、実際には民家の裏となっていたりして通り抜けはおろか様子を見ることもままならないのですが、台帳上は道路の下を通っていることになっているのが興味深いです。
(地図出典:東京都下水道台帳)

北側流路

 下の写真は1997年の北側の流路の様子です。道路となった暗渠は、ゆったりと蛇行しながら下っていきます。正面に東京タワーが見えます。下水道の敷設年から判断すると、こちらの流路は1931年に暗渠化されたものと思われます。ただ、こちらの流路は明治末期の地形図や地籍図ですでに姿を消していること、谷戸の斜面は徐々に道から離れ、道沿いの住宅の裏手に移っていくことから、本来もう少し北側に流れていたのが、早い時期に埋め立てられ、道路の下に新たに下水道として付け替えられたのかもしれません。
(1997年撮影)

南側流路

 南側の流路は谷戸に立ち並ぶ住宅の裏手となっていてほとんど確認することはできませんが、青山橋のたもとまで来るとなんとか様子を垣間見ることができます。右側の斜面はかつての谷戸の面影を残しているのでしょう。その斜面の上の台地には関東大震災まで斉藤茂吉の父が開設した青山脳病院が建っていて、北杜夫の小説「楡家の人々」の舞台となりました。
 暗渠の下水管は斜面の下、民家との境目のフェンスのあるあたりを奥から手前に流れています。暗渠の上には排水用の溝が設けられているようです。
(2016年再撮影)

流路の証拠

 廣閑院の裏手の庭先に、その暗渠の上に設けられた排水用の溝の様子が見られます。もちろんかつての川そのものではありませんが、かつてここを川が流れていたことの数少ない証拠ではないかと思います。
1997年撮影)

笄川本流へ


 北側流路は、前回の記事で触れたように、青山橋の北側で笄川に合流していました。一方で南側の流路は、青山橋をくぐり、立山墓地の斜面に沿って流れていました。立山墓地の脇には、わずかな区間ですが未舗装の暗渠が残っています。長者丸支流は、ちょうどその暗渠路地の入り口となっているところで、右奥から流れてきた笄川と合流していました。
(2016年再撮影)

 次回はもう少し下ったところで合流していた、根津美術館を源流とする支流をとりあげます。

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