2016/02/28

【4-7】有栖川宮邸の湧水池

(※写真は特記ない限り2005年撮影です)

 笄川編の最後は、広尾の有栖川宮記念公園にある湧水池をとりあげます。まずは地図を。地図上は便宜的に池から笄川に注ぐ流れを記入しましたが、明治以降の地図で池と笄川を結ぶ水路を記したものは残念ながら見当たりません。ただ、かつて池の湧水量はそれなりにあったはずで、道路沿いの溝などを流れて笄川に流入していたのではないかと思われます。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

有栖川宮記念公園

 「有栖川宮記念公園」は、前回とりあげた、日比谷線広尾駅前の広尾橋交差点から東に進んだ麻布台の斜面から台地上にかけて、三角形に広がっています。公園の敷地はかつて陸奥盛岡藩南部家の下屋敷で、旧町名の麻布盛岡町や、公園東側の南部坂の由来となっています。屋敷は1896年(明治29年)には有栖川宮家の御料地となり、同家が絶えたのちは高松宮家が引き継ぎ、1934年(昭和9年)に東京市に寄付され記念公園となり一般に公開されました。その後1975年には港区に移管され、区立公園となっています。
 公園のうち麻布台の斜面の部分は、もともとあったであろう細い谷筋を活かし、鬱蒼とした森に滝や渓流、池が配置された庭園となっています。渓流はかつては湧水を利用していたようです。現在は水の大部分は汲み上げた地下水を人工的に循環させているものの、わずかに湧水も残っています。

明治前期の様子

 明治前期の地図では、御料地となる前の敷地の様子が伺えます。南側の丘陵斜面は畑に、谷沿いの斜面はトチノキ林と杉林、そして谷底は水田になっています。この時期、旧大名屋敷を利用してよく栽培されていた茶畑がここにもあったこともわかります。
(地図出典:「五千分一東京図測量原図 東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下渋谷村近傍」参謀本部陸軍部測量局 1883)

太鼓橋

 池は北東に向かって細長くのび、いくつか小島も設けられています。こちらの太鼓橋は、1934年の開園当初から設置されているものです。

山葵田だったせせらぎ

 池の先の谷筋にはせせらぎが注いでいます。写真はせせらぎの途中から先程の太鼓橋を振り返ってみたところです。鬱蒼とした森に囲まれていて昼でも薄暗く、山の中のようです。明治時代、御料地となる前は池の北側からこのせせらぎにかけては、ワサビ田となっていたそうです。さきほどの地図で水田と記されている所でしょう。ワサビを栽培できるほどの清冽な湧水が流れていたということになります。

井戸

 川沿いには2箇所ほど石で方形に囲まれた自噴の井戸がつくられていますが、そのうちひとつは今でも(※2005年時点)わずかに水が湧き出しています。奥に見える橋はコンクリートで木を模した「擬木橋」で、こちらも開園当初からあったもののようです。

今も残る湧水

 せせらぎをしばらく進んでいくと、途中から柵に囲まれてしまいます。一時期、この柵の中の流れでは蛍の養殖が試みられていました。
 柵の手前、右側の草が生い茂る斜面からは2011年の調査で湧水が発見されました。1分当り0.8〜1.4リットルの湧水がせせらぎに流れ込んでいます。草叢の間を注意深く見ると、確かに水が湧きだしてるのを確認できます。
(※2015年再撮影)

蛍のいた清流

 柵の中のせせらぎです。自然な造園がなされています。両側の斜面も急峻で、渓谷のようです。いつか再び蛍が舞うことはあるのでしょうか。
(※2015年再撮影)

滝ともう1ヶ所の湧水

 さらに上流にいくと、柵を抜けたところに滝が架かっています。現在、滝自体は地下水と池の循環水をポンプアップして落としている人工の滝ですが、この滝の左側の石組みの下からも、わずかな量ではありますが、水が湧きだしています。わかりにくいですが、滝のポンプアップが止まっているときに見ると、滝つぼの脇から水が染み出しているのが確認できます。

最上流部

 先ほどの滝の更に上流にも、滝が設けられています。ここからポンプアップされた水が流れ出しています。池の標高が14mなのに対し滝の上は27m、この間わずか250mほどで、かなりの急斜面となっていることがわかります。台地の反対側には「がま池」(後の記事でとりあげます)もあり、かつての麻布台は湧水量が豊富だったようです。

 以上で、笄川の水系探索を終わりとします。しばらく準備の時間をいただき、次回からは渋谷川下流部=古川の水系を辿っていきます。まずは白金側のいくつかの支流をたどっていくこととします。


2016/02/19

【4-6】笄川下流部と高樹町支流・宮代町支流

(※写真は特記ない限り2005年撮影です))

 前回に引き続き、笄川(こうがいがわ)の下流部を下っていきます。まずは地図を。青の点線が、かつて川が流れていたルートとなります。
 (地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

笄橋(こうがいばし)

 笄川は六本木通りを越え南下していきます。写真は通りから150mほど進んだ地点です。正面に見える牛坂のたもと、十字路を右から左に笄川本流が流れており、ここに笄川の名前の由来となった笄橋がかかっていました。手前の道沿いには龍土町支流が流れ、笄橋の袂で合流していました。
 笄橋の名前の由来には様々な伝承があります。主なものとしては、939年の「天慶の乱」の際、源経基が川にかかる橋を渡ったときに味方の証拠として刀の笄(鉤匙)を与えたため、その橋が笄橋と呼ばれるようになり、橋の下を流れる川を笄川と呼ぶようになったという説や、徳川家康が江戸幕府を開いた際に、このあたりに甲賀、伊賀組に屋敷を与え住まわせた。そのため、橋を甲賀伊賀橋と呼ぶようになり、後に笄橋に変わった、等々。白金長者(後日、白金村分水の項でとりあげます)の息子銀王丸と、渋谷の金の長者(金王丸のことか→「【3-2】渋谷川中流部(1)渋谷川中流部と黒鍬谷の支流」参照)の娘との恋路に結びつけた伝説も残っています。
 これらは後からのコジツケで、実際には一帯の地名が「国府が谷」「鴻が谷」と呼ばれていたのが変化したとも、いわれています。いずれにせよこの笄が川の名前や町名になりました。しかし、現在ではその名を留めるのは笄小学校くらいです。暗渠の通りは最近ではビストロ通りと呼ばれているそうですが、せめて笄川通りとでも呼んでほしいものです。

高樹町支流

 笄橋からしばらく下った堀田坂の下のところでは、旧高樹町に始まる谷筋を流れる支流が合流していました。この支流はもともとは高樹町19番地(現在の南青山7-9から12)にあった丹南藩主高木氏の屋敷の池を水源としていたようです。この池は600坪あまりの広さだったそうですが、徐々に小さくなり、明治中頃には埋め立てられてしまったようです。下は明治前記の地図です。この時点で高樹邸の池はだいぶ小さくなっていますが、急峻で細い谷筋を川が流れていた様子がはっきりとわかります。
(地図出典:「五千分一東京図測量原図」参謀本部陸軍部測量局 1883年)

 池が失くなった後も川は残り、戦後しばらくたった地形図にも流路がはっきりと載っています。しかし現在では、谷は埋め立てられて住宅地となり、川の痕跡は皆無です。わずかに高陵中学校の東側、クランチ状に曲がる道路の一区間が川跡の敷地を利用したものとなっています。写真は道が高陵中学校に突き当たっている場所で、門の向こうはプールとなっています。川を暗渠にした下水道は校庭を通ってこの道に抜けています。(※2016年現在、中学校の改修により下水道は校庭を迂回するよう付け替えられている)
道の反対(下流)方向を向くと、こちらは民家の門に突き当たっています。暗渠の下水道はここも通り抜けています。かなり幅が狭く急な谷筋ですが、はっきり川跡が特定できるのはこの区間だけでした。現在高樹町の名前は首都高速の出入口に残るのみです。

笄小学校付近からの流れ

 堀田坂下、高樹町支流の笄川への合流地点の反対側には、別の暗渠が合流しています。こちらは現在の笄小学校付近から笄公園を経てきたの流れの痕跡のようです。笄小学校の裏手には80年代終わり頃までは湧水が残っていたといいます。ちなみに堀田坂は別名「禿坂(かむろざか)」ともいい、笄川に住んでいたカッパがその名の由来だという伝承もあるそうです。


順心女子学園脇の暗渠

 堀田坂より下流は渋谷区と港区の区界となって、外苑西通りと並行し順心女子学園(※現在広尾学園)の脇を下っていきます。地下には幅3mあまりの暗渠が通っています。道路わきには土が露出し、木が道の上にせり出しています。

川沿いの土手

 暗渠の右岸(西側)は知的障害児施設である宮代学園の敷地となっていて、木々に囲まれ自然を残した風景となっています。ここに川が流れていたらさぞかしいい景色だったことでしょう。


宮代町支流

 笄川の暗渠が外苑西通りに合流する手前の西側、広尾ガーデンヒルズと聖心女子大学の境界線は狭く深い谷となっていて、かつて小川が流れていました。1970年頃まで開渠だったようで、日赤看護大学から流れ出し笄川に合流する流れが住宅地図に描かれています。また、1955年の地形図には谷を堰き止めて造ったと思われる池が描かれています。一帯は旧町名を宮代町といい、更に、1928年以前は笄開谷(こうがいだに)との字名がついていました。ここではこの支流を「宮代町支流」と仮に呼びます。反対側はいもり川の谷となっています。下は1966年の住宅地図です。中央、深い谷を流れが貫いています。
(地図出典:「全住宅案内地図帳渋谷区版 昭和41年度板」住宅教会地図部編集室編)

久邇宮邸と御泉水

 宮代町支流の谷を挟んだ丘陵地は江戸期までは堀田相模守の下屋敷でした。明治に入り、一帯は東京府の開拓使用地となります。その後開拓民は北海道に転じ、一帯は御料地となり、久邇宮邸が置かれます。詳細は定かでありませんが、その頃、宮代町支流の源流地は「御泉水」と呼ばれていたようです。戦後敷地は民有化され、現在に至るまで、聖心女子大学の敷地となっています。
 構内に立ち入ることはできませんでしたが、谷の両側の斜面はコンクリート擁壁で固められ、谷底には道が通っているようです。流路は写真の左手の坂の方から下ってきて、右奥からの笄川に合流していました。

広尾橋

 地下鉄日比谷線広尾駅付近、広尾商店街と外苑西通りの交差点には今も「広尾橋」の名前が残っています。もちろん、笄川に架かっていた橋の名前です。

天現寺付近の外苑西通り

 地下鉄広尾駅以南の笄川は外苑西通りの建設にあわせて1930年代後半に外苑西通りの直下に付け替えられ「下水道青山幹線」として暗渠化されました。現在、地上には川の痕跡はありません。

区界に残る笄川のルート

 ただ、渋谷区と港区の境界線が道路とずれて蛇行しており、かつての笄川の流路を偲ばせる唯一のてがかりとなっています。
(地図出典:google map)

天現寺橋

 地下鉄広尾駅付近から天現寺交差点付近にかけては、江戸時代は「廣尾の原」「土筆の原」と呼ばれる広大な原野で、校外の景勝地でした。現在の車が行き交う風景からはとても想像ができません。笄川は「【3-6】渋谷川中流部(2)三田用水道城口分水と渋谷川中流部その2」でも記したとおり、天現寺橋の下流側で渋谷川に合流して終わります。現在では雨水幹線の暗渠が大きく口を開けています。

 以上で笄川本流をたどり終えましたが、笄川水系についてはあと1回、有栖川宮公園の池について取り上げることとします。

2016/02/13

【4-5】笄川中流部と蛇が池支流・龍土町支流

(※写真は特記ない限り2005年撮影です)

 今回は青山墓地の東側を流れていた、蛇が池からの支流と龍土町からの支流、そして笄川の中流部についてとりあげます。まずは地図を。青の点線が、かつて川が流れていたルートとなります。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

蛇が池支流:蛇が池跡

 青山の地名は現在の青山墓地の場所に広大な下屋敷を抱えていた青山家から来ています。徳川家康の家臣青山忠成は、馬で一気に走った所を自分の屋敷地にして良いと言われ、馬が倒れるまで走り回ってこの一帯を屋敷地としたとの伝承が残されていますが、これは渋谷川の源流である新宿御苑に下屋敷を構えた内藤家の伝承と全くおなじです。内藤家は甲州街道沿い、青山家は大山街道沿いと交通の要所にあたり、江戸防衛時に陣地となるよう広大な屋敷を与えられたといわれています。
 この敷地の北東側にあった「蛇が池」(「蛇池」「蛇之池」とも)から、笄川の支流が流れ出していました。水源が明確なためか、文献によってはこちらの流れを笄川の本流としているものもあります。蛇が池は木々が水の上に張り出す、鬱蒼とした池だったそうですが、明治以降徐々に小さくなり、昭和初期には埋め立てられてしまいました。池のあった付近は、現在では運送業者の駐車場となっています。

蛇が池支流:陸軍射的場

 蛇が池周辺の明治時代の地図を見てみると、三日月状の弧を描く「蛇之池」が確認できます。そして、それ以上に目立つのは池の東側にある「陸軍射的場」です。射的場は蛇が池からの谷筋をふさぐように、東北東から南南西に細長く矩形に延びた形をしています。等高線や地図記号から判断すると、蛇が池支流のもともとの流れは蛇が池の東端から流れだしてまっすぐ南下していたが、射的場で遮られたため、西側の谷筋の斜面を堀割で迂回するよう付け替えられたと推測できます。
(地図出典:「五千分一東京図測量原図 東京府武蔵国赤坂区青山南町近傍」参謀本部陸軍部測量局 1883年)

蛇が池支流:鉄砲山

 地図上、射的場の南南西側を見ると、コの字型に投稿線が密集している一角があります。これは弾止めの土手で、地元では鉄砲山と呼ばれていました。演習が行われない日には近所の子供たちの遊び場となっていたそうで、斎藤茂吉は
「赤き旗 けふはのぼらずどんたくの 鉄砲山に子供らが見ゆ」
と詠んでいます。
 射的場の敷地は戦後には更地となり現在ではふつうの住宅地となっていますが、道路の区画をみると、ちょうど射的場の形にそって周囲の道路に対してこの一角だけ斜めになっており、名残が見られます。
(地図出典:「国土地理院地図切り取りサイト」地図に「東京市赤坂区地図」(東京郵便局 1907)記載の射的場・蛇が池等の位置をプロット)

蛇が池支流:外苑東通り沿い

 川は鉄砲山を迂回して現在の青山葬儀所の西縁を通った後、現在の青山通り西沿いの歩道の位置を青山墓地に沿って流れていました。外苑東通りはもともとは都電の専用軌道となっていました。歩道には道ばたに雑草が茂り、墓地の土手が迫っていて、現在でも川が流れていそうな雰囲気になっています。

蛇が池支流:青山墓地脇

 本流と異なり、蛇が池支流の谷には水田はほとんどなく、笄川本流と合流する直前、龍土町支流と平行する区間のみ、わずかに水田があったようです。流路は青山墓地の最南端の縁を回り込んで西に向かい、笄川本流と合流していました。(下の写真では左側が青山墓地となり、川は奥から手前に向けて流れていました。)

龍土町支流:水源近辺

 一方、蛇が池支流の更に東側には、六本木7-6(旧町名龍土町)の法庵寺近辺を水源とする支流が流れていました。この支流は新龍土町と霞町の境(現星条旗通り)の低地を西に流れ、外苑西通りのところで南に向きを変え、笄川本流と暫く並行して流れたのち、笄川本流に合流していました。現在は暗渠化され、完全に道路敷となっています。

龍土町支流:星条旗通り

 写真は星条旗通り沿いの暗渠の途中から上流方向を眺めた様子です。歩道の直下に暗渠が流れており、歩道の幅や曲がり具合に川の名残が見られます。通りの南側の斜面は明治初期には茶畑が点在するのどかな風景だったようです。通り沿いに住んでいる友人のお父上(1939年生)からは下記のような証言を頂きました。

・戦後天現寺より移り住んだ際にはすでにどぶ川のようになっていて、名前を付けて呼ぶようなものではなかった。
・現在の星条旗新聞社のあるところに近衛第三連隊があったが、進駐軍が駐留した。その時、鉄条網が張り巡らされ、その前に小さな土手、幅1メートルほどの歩道、幅2メートルほどのどぶ川という順に位置していた。もちろん、あたりは住宅だけで、今のように飲食店は全くなく、川に沿って通りの家々の裏口があっただけだった。
・上流は竜土町(六本木6・7丁目)、下流は笄町(西麻布2丁目)に繋がっていたと思う。
・昭和30年から35年頃にかけて、星条旗通り沿いに1メートルほどの土管を通し、暗渠にした。道路幅は広がったが、その頃はまだ車は通れなかったように記憶している。
・東京オリンピック(1964年)頃にはほぼ現在のような状態になった。

龍土町支流:立ち入り禁止

 川の北側の丘は、江戸期は伊達遠江守の抱屋敷でしたが、明治期に第三歩兵連隊の敷地となり、戦後は米軍の軍用地となりました。六本木の町はこの一帯に駐留した米軍兵相手の繁華街として発展しました。現在米軍の機関紙である星条旗新聞社の日本支社の敷地となっており、軍用地として扱われています。

龍土町支流:木陰

 星条旗通りと外苑東通りの合流する一角に、流路跡の道が残っています。この先外苑西通りの東縁にあたるところを笄川本流に並行して南下し、西麻布3-17で直角に西に曲がり、西麻布4-2の笄橋のたもとで本流に合流していました。本流との間の土地は明治中期までは水田となっていましたが、明治後期には急速に住宅密集地となりました。

笄川本流:立山墓地付近

 ここで再び笄川の本流(【4-1】記事参照)に戻ります。少し遡って、長者丸支流(【4-3記事参照】)合流地点付近から下っていきます。写真は立山墓地付近。左側の道が笄川の暗渠となります。地下には下水道青山幹線となった1.4m四方の暗渠が流れています。写真は2015年撮影のものです。2005年当時は道の分岐点には汲み上げ上げ井戸があり、笄川暗渠沿いには古い木造家屋が密集していましたが、井戸は外されて、家々も更地になっています。
(2015年再撮影)

笄川本流:東側分流の合流地点

 外苑西通りのところを流れていた本流の東側の分流は、暗渠化直前は上の写真の付近で直角に折れ、西側の流れに合流していました。その流路の付近には雑草の生い茂る細長い空き地が残されています。
(2015年再撮影)

笄川本流:コレヨリ私有地

 この付近は時代によって水路の変遷がずいぶんとあったようで水路がいりくんでいますが、明治中頃の市街地化後は、途中で現在青山幹線の通る道とは一本東側の路地の場所にシフトして流れていました。写真の路地がその流路にあたります。途中で根津邸支流からの流れ(の跡)(【4-4】記事参照)をあわせてすすんでいくと、路上に「コレヨリ私有地」の字が見られます。かつてこの地点で流路は右に折れ、再び青山幹線の道に戻っていたようです。シフト途中のルートには現在家が建っていて痕跡はありませんが、路上のこの文字がここまでが川だったことをはっきりと示しています。
(2015年再撮影)

笄川本流:霞町交差点と風街

 下の写真の手前で青山墓地東側からの蛇が池支流をあわせた笄川は、更に南下していきます。六本木通りにぶつかる近辺は昔からある道と暗渠の道が並行しています。写真の左側が暗渠の道となります。
 奥に見える高速道路の下は、六本木通りと外苑西通りの交差する西麻布(霞町)交差点付近です。笄川の谷が大きく深いため、高速道路はかなり高い場所を通っています。笄川が暗渠化されたのは昭和初期ですが、東京オリンピック前後にはこれらの高速道路や六本木通り、外苑西通りが開通し、笄川周辺の風景は再び大きく変わりました。

笄川本流:風街と笄川

 日本のロックのパイオニア”はっぴいえんど”の1971年のアルバム「風街ろまん」のタイトルになっている「風街」はこの辺り、旧「霞町」で生まれ育った松本隆が、オリンピックのときに失われた風景に対して名付けた名称です。松本の著した小説「微熱少年」では、風街は渋谷と青山、麻布を結んだ三角形とされています。と、するならば、その一辺はまさに笄川の暗渠と重なってきます。
 「風街ろまん」の内ジャケットには、渋谷方面から六本木通りを笄川の谷に下って霞町の交差点に向かう、新橋行きの都電6系統の路面電車(1967年廃止)が描かれています。

次回は六本木通り以南から渋谷川の合流地点まで辿っていきます。

2016/02/07

【4-4】笄川根津邸支流

(※写真は特記ない限り2005年撮影です)

 長者丸支流の谷と台地を挟んだ南側の谷にも、かつて笄川の支流が流れていました。川の跡はほとんど残っていませんが、その水源は根津美術館の庭園の中に残り、今でも滾々と湧き出しています。今回はこの「笄川根津邸支流」とでもいうべきこの支流を、水源をメインに紹介します。
 まずは地図を。青の点線が、かつて川が流れていたルートとなります。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工) 

根津邸と根津美術館

 根津美術館は、かつては実業家であり東武鉄道の経営で知られる根津嘉一郎(初代)が蒐集した古美術品を保存・展示するためにつくられた美術館で、1941年に開館しました。美しい庭園でも知られていますが、もともとこの地は彼の邸宅でもありました。彼は、この地の変化に富んだ地形を気に入り、1906年(明治39年)にこの地を購入します。
 写真は敷地の外壁です。高低差があること、緑が豊かなことがよくわかります。
(2015年再撮影)

美術館の庭園

 もともと谷底には江戸期よりため池があって、そこから流れだした川沿いは笄川本流長者丸支流と同様、原宿村の飛び地の水田となっていたようです。明治中期の地図には庭園のあたりに大きな池が描かれており、池よりも西、南青山5-4近辺から流れ出してた小川がそこを通っています。ただ、その頃になると耕作は放棄され、一帯は荒れ果てていたといいます。彼は邸宅を構えると同時に庭園を造園し、その際に池も湧水を利用して現在のかたちに整備されました。谷頭の地形を利用した庭園には、現在でも都心とは思えない山奥のような風景が残されています。

かつてあった湧水地点

 池を囲む谷の斜面には、3、4か所ほど湧水地点が設けられています。大部分は枯れていますが、1997年に訪問した際はその中の1か所は、自然の湧水そのままに、土の割れ目から水が湧き出していました。2005年の再訪時は残念ながら枯れていました。
(1997年撮影) 

今も残る湧水

 最大の湧水源は幸いに今でも豊富に水が湧いており、石樋や竹樋を伝って池に注いでいます。こちらの湧水は地中に管を挿して導水しているようです。(※港区2011年の調査では、1分あたり21.6リットルの湧水量が確認されています)。

湧水池

 庭園内の池は細長く、谷頭に近い西寄りはかなり水が澄んでいます。池の中にも井筒が設けられていて、水が湧きだしています。(※こちらは港区2011年の調査では、1分あたり6.7リットルの湧水量が確認されています)。

 池の東寄り、下流にあたる方は、周囲の木々が池に張り出し鬱蒼としています。かつてはこの奥から川と流れ出していたと思われます。

池を流れ出ていた川

 かつて、池の東端から流れ出た水は川となって笄川に向かっていました。下の写真で奥に見える森が根津美術館庭園です。最初の写真に写っていた塀の端っこが見えるかと思います。そして川は道路の右側に沿って奥から手前に流れていました。マンホールのある位置がかつての流路と思われます。
(2015年再撮影)

原宿村飛地

 マンホールの位置から北東側を見ると、左右に延びる帯状の浅い窪地が確認できます。この窪地がかつて原宿村の飛地の水田となっていた場所です。明治後期の地図を見ると、この窪地の底にも本流に平行した水路が描かれています。
 (2015年再撮影)

窪地の底の水路跡

 水路跡は、庭園寄り(上流方向)行き止まりの路地となっていて、下流方向は笄川の暗渠まで道が続いています。

笄川へ

 本流の方をかつての流路を下流方向に眺めた様子です。流れは道の左側に沿って流れ、分岐を直進し、その奥で笄川本流に合流していました。
(2015年再撮影)