2016/01/07

【3-2】渋谷川中流部(1)渋谷川中流部と黒鍬谷の支流

(写真は特記ない限り2005年撮影のものです)

まずは今回辿る範囲の地図を。点線は暗渠・川跡、実線は川です。また、青色は自然河川、赤色は上水・用水を示しています。


ビルの谷間

 渋谷駅南東の稲荷橋から、渋谷川は地上に姿を現します。ただ、両岸をビルに挟まれ、橋以外からは川を見ることはできません。水もほとんど流れておらず、建物にも背を向けられ、忘れられた遺構のような佇まいです。ビルと護岸の間のわずかな隙間にしぶとく生えている木々の緑だけが、川らしさをとどめています。

涸れている川

 稲荷橋から数えて4つめの徒歩橋から渋谷川の上流方向を見た写真です。現在、渋谷駅以北の暗渠区間は下水道幹線として下流部とは切り離されており、流れる水は渋谷駅駅前の地下に染み出す水や雨水だけとなっているため、川の水はほとんどなく、流れは水溜りのようになっています。

黒鍬谷の流れ

 かつては徒歩橋の上流側で、左岸(東)側から小さな流れが合流していました。この川は黒鍬谷と呼ばれる谷筋に湧き出した水を集め、金王八幡宮の東側を流れていました。八幡宮は1092年にこの地に鎮座しました。渋谷川の谷と黒鍬谷に挟まれた台地の端にあり、かつては数カ所に湧水や池のある水の豊かな土地だったようです。鎮座と同時に渋谷氏が隣接して館を構え居城としました。この城はのちには「渋谷城」と呼ばれ、また八幡宮は渋谷金王丸常光(1141〜1185)の名声により、金王八幡宮と呼ばれるようになったといいます。

八幡宮付近の小川を、大岡昇平は「幼年」で次のように描写しています。
「石段の下には溝があり、それを石橋で渡った先に、石畳の参道が続いていた」「石段下の溝に水はあまりなかったが、その下が神社の境内を出て細い石畳の細い道に沿うようになると、流水が音を立てるほど豊かになる。この辺の家の中にある湧泉の影響らしい」
下の写真は文中の「石段」正面側からみた八幡宮です。川は手前の道路を右手前から左奥に向かって流れていて、石段の前のところに文中の「石橋」が架かっていました。
(2015年再撮影の写真)

石橋の名残

 文中に登場する石橋は今ではなくなっていますが、そのパーツは現在でも神社の境内の各所に転用されて残っています。
(2015年再撮影の写真)

今も残る暗渠

 黒鍬谷は、かつては深い谷だったようですが、明治初期の埋立て、そして戦後の更なる埋立てで、今ではだいぶ浅くなったといいます。それでもたどってみると谷筋であることははっきりとわかります。その谷底をたどっていくと、六本木通りを越えて青山通りの南側まで行き着きます。そこには現在でも「水路敷」扱いとなっている、未舗装の細長い空き地が残っています(写真の塀沿いの砂利敷の部分。奥から手前に向けて流れていた)。この区間は1940年代まで、水が流れていたそうです。
(2015年再撮影の写真)

清流復活事業

 再び渋谷川を下っていきます。水量が激減し水質悪化していた渋谷川に対し、1995年より、落合水再生センター(下水処理場)から高度処理した再生水を送る「清流復活」が図られています。1日2万立方メートルの水が並木橋下より注ぎ込んでいます。処理水を「清流」と言い切ってしまうのはどうかという気もしますが、ここから下流は淀むことなくある程度の水量が流れています。17kmもの地下導水管により、渋谷川の他に目黒川と呑川にも導水されています。もともとはすべて神田川に流されていた水です。

再生水の合流と鉢山口分水

並木橋の袂から再生水が流れ出ています。この場所ではかつて三田用水鉢山口分水が合流していました。こちらについては別項で紹介します。

庚申橋と庚申水車

 写真は庚申橋より下流方向を眺めたものです。橋の袂には庚申塔があり、古くからの交通の要所だったことが窺われます。
 江戸時代から明治時代にかけて、渋谷川の流域には数多くの水車が架けられていました。それらは江戸期には精米用として、明治に入ると撚糸や製綿などの工業の動力として利用されていました。渋谷川本流は、玉川上水からの余水が流されていたため水量はあったものの、傾斜が少なく十分な動力を引き出すための落差が得られなかったため、堰をを設けるなどの工夫がなされました。
 庚申橋下流側では川幅5mほどのところに高さ1.7mほどの堰を設けて右岸に細い水路を引き、水流を強めて水車をまわしていました。水車の直径は5m強、63本の杵を動かし大正時代半ばまで、米を搗いていました。


地下鉄日比谷線の湧水

 各所の橋から川面を覗きながら下っていきます。途中比丘橋付近では、三田用水猿楽口分水が合流していました。こちらも別項にて改めて紹介します。
 JR恵比寿駅の東側、駒沢通りの通る渋谷橋を過ぎた恵比寿東公園(通称タコ公園)の脇では、2004年9月より地下鉄日比谷線のトンネル内の湧水を流入させています。一日400立方メートルとわずかな量ですが、こちらは再生水と違って一応「清流」といえるでしょう。護岸の小さな穴から染み出ているような水がそれなのでしょうか。ここから川底が深く掘り下げられています。

渋谷橋から(1997年)

 1997年に、同じ場所を上流側の渋谷橋から見た風景です。護岸改修前で、川は今よりも浅く川沿いの緑も濃く、右岸からは湧き水が滲み出しているようです。
(1997年撮影)

昭和初期の護岸工事

渋谷駅前の宮益橋から天現寺橋にかけての渋谷川は、1929年〜31年にかけて鉄筋コンクリートの護岸とコンクリート張りの川底を持つ水路に改修されました。1990年代半ばまでの渋谷川は、ほぼその当時のままの姿で流れていました。下の写真は1997年に、一本橋から下流方向を眺めたものです。上流の暗渠化で水量が減ったため川底の中央に溝を作って水が流れるようにされてはいますが、他は戦前の改修のままで、川沿いにも緑が残っています。
(1997年撮影)

これから先の渋谷川を下って行く前に、次回以降は、ここまで流れ込んでいた幾つかの支流を紹介していきます。

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