2016/01/30

【4−2】笄川上流部

(写真は特記のない限り2005年撮影です。)

まずは笄川本流を上流から下っていきます。

ぼちぼち通り

 地下鉄銀座線外苑前駅の南側、梅窓院の西側から笄川(こうがいかわ)の本流と言うべき流路の暗渠が始まっています。この暗渠の通りは、墓地の横を通っているという理由で「ぼちぼち通り」と名づけられています。梅窓院は、江戸時代この一帯を下屋敷としていた美濃郡上藩主青山幸成を荼毘に付した場所に1643年に建立された寺で、青山家代々の菩提所となっています。梅窓院一帯は青山墓地の台地西側の谷の谷頭にあたり、かつては湧水や谷に集まる雨水が笄川の源となっていたと考えられます。川は「笄開川」「親川」「龍川」とも呼ばれていたといいます。

西側流路の暗渠

 ぼちぼち通りをすこし下るとすぐに、西側に細い暗渠が分かれます。ここから先は2本の水路が、谷戸の斜面沿いの両側に並行して流れていました。そして間の谷底には水田が細長く続いていました。東側の暗渠は外苑西通りの下敷きとなってしまっていますが、西側の方は路地として辿ることができます。こちらを追っていきます。下の写真は1997年の撮影です。垢抜けた青山通りのすぐそばに、大谷石の擁壁や木の柵といった、ひっそりとして鄙びた風景が残っています。
(1997年撮影)

段差と階段

 外苑西通りと交差する場所は数メートルの段差となっていて、階段が設けられています。

外苑通り西側へ

 外苑通りの反対側にも階段があって、暗渠が続いています。階段に続く暗渠は、しばらくの区間は綺麗に敷石が敷かれて遊歩道風になっています。

路地裏

 しかし、少し下って行くと再びアスファルト舗装の暗渠に戻ります。谷は大きくS字型にカーブしており、暗渠はその西側の斜面の下を流れていきます。東側の水路は外苑西通りに飲み込まれてしまい地上の痕跡はほとんどありませんが、道路の下には川だった頃のカーブをそのまま残した暗渠が通っています。南青山2-31のガソリンスタンドの東側で、外苑西通りが少し青山墓地側に出っ張っている部分は川の流路の名残で、かまぼこ型の暗渠がこの部分を通っています。

原宿村飛地

 二つの川筋に挟まれた細長い土地は「五反田」と字名のついた原宿村の飛地となっていて、明治中頃まで水田となっていました。長者丸支流(後述)の方に住んでいた歌人斎藤茂吉の短歌にこの近辺の水田風景を詠んだと思われるものがあります。
青山の 町蔭の田の 畦道を そぞろに来つれ 春薊(あざみ)やも
青山の 町蔭の田の 水錆田に しみじみとして 雨ふりにけり 
明治後期にはこれらの水田は消滅しました。水田の一部、先ほど触れたガソリンスタンドの付近には金魚の養殖池ができ、明治後期から戦前にかけての地形図を見ると、その様子を確認することができます。
 下の写真は1997年、暗渠を上流方向に眺めた様子です(※今では周囲の建物の大部分が建て替わっています)。
(1997年撮影)

外苑西通りと青山墓地

 東側の水路は青山墓地の土手直下、外苑西通りの場所を流れていました。写真の辺りでは道路西端(左側)の地下を下水幹線になった暗渠が通っています。
 青山墓地は1874年、青山氏屋敷跡に神葬墓地として設立されました。明治になり「神仏分離令」が出されて、墓を必ずしも寺院の墓地に持たなくてもよくなったことに伴うもので、都内各地にこのような神葬墓地がつくられました。現在11万人ほどが埋葬されているとのことで、港区のこの一帯の人口(赤坂支所管内)が約3万人ですから凄い数です。「死者の都市」といえるかもしれません。

青山橋

 先の外苑西通りの写真は、長者丸支流と根津邸支流に挟まれた台地から、笄川本流の谷を越えて青山墓地の台地にかかる「青山橋」から見下ろしたものです。谷はかなり深く、谷底と台地の標高差は12mもあります。写真奥に見える緑の丘は立山墓地で、青山墓地に先立ち1872年に設立された神葬墓地です。このふもとに沿って右から左に向かって長者丸支流南水路が流れていました。

青山橋から見下ろす暗渠
 
 再び青山橋から、今度は西側水路の暗渠を上流方向に向かって見下ろしてみます。左側、大谷石の擁壁の下を通る路地が西側水路です。一帯は少し前までは家屋が密集していましたが、取り壊されて駐車場となっています。右側の、電信柱の並ぶ色の違うところはもともとは家々の間の路地だったところです。(※2016年現在、路地跡を潰し二つの暗渠の間の谷戸を塞いで、大きな高級マンションが建てられています。)

長者丸支流の合流地点

 青山橋の直下付近では、「長者丸支流(仮称)」が合流していました。写真左中ほどからの道が長者丸支流の北側水路(こちらも谷戸を2本の水路が流れていました)、右中程からの道が笄川本流西側水路で、ここで合流し右下に続く道のところを下っていました。次回はこの長者丸支流を辿ってみます。

【4‐1】笄川水系の概要

 笄川(こうがいがわ)は、舌状に張り出した台地となっている青山墓地の両脇の谷筋から流れ出し、いくつもの支流をあわせながら南下して天現寺橋で渋谷川に合流していた川です。「笄開川」「親川」「龍川」とも呼ばれていたこの流れはいくつもの支流をもち、渋谷川の支流では宇田川に次ぐ規模の水系となっていました。
 本流は1937年に大部分が暗渠化され、部分的に各地に残っていた開渠も東京オリンピック前後までには暗渠化されました。これから数回にわたりその水系を追っていきます。本流の笄川以外、公式な名称はなかったようですが、わかりやすくするため、各支流に対して旧町名などから以下のとおり仮称をつけることとします。

[笄川本流]
 地下鉄銀座線外苑前駅付近を水源とし青山墓地西縁を南下する流れ
(※蛇が池からの流れを本流とする見方もありますが、ここでは全長の長いこちらを本流とします)
[長者丸支流]
 南青山3-6近辺を水源とし、南青山4丁目の谷を東進する流れ
[根津邸支流]
 根津美術館の池近辺を水源とする流れ
[蛇が池支流]
 南青山1丁目にあった蛇が池を水源とし青山墓地東縁を南下する流れ
[龍土町支流]
 六本木7-6近辺を水源とし星条旗通りを西進する流れ
[高樹町支流]
 南青山7-12にあった丹南藩高樹邸の池を水源とする流れ
[宮代町支流]
 聖心女子大学の北側境界の谷を東進する流れ
[有栖川宮支流]
 有栖川宮記念公園の池に発する流れ
 (※川があったかどうかは不明ですが、便宜上支流と名づけておきます)



2016/01/22

【3-6】渋谷川中流部(2)三田用水道城口分水と渋谷川中流部その2

(写真は特記のない限り2005年撮影のものです)

 今回は恵比寿以東の渋谷川、そしてそこにかつて流れ込んでいた三田用水道城口分水を辿っていきます。まずは地図を。点線は暗渠・水路跡・川跡、実線は開渠。青は自然河川、赤は用水路・上水路を示しています。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

恵比寿橋から(2005年)

 恵比寿駅付近より下流(渋谷橋以東)、天現寺橋まで古川と名前を変えるまでの区間の渋谷川は、長らく昭和初期の改修工事時のままとなっていましたが、1990年代後半より再改修が始まり2003年には竣工、姿を一変させました。川底を掘り下げてつくられた2段式の垂直なコンクリート護岸はあまりにも機能に特化し過ぎたフォルムで、人を寄せ付けない冷たい感じがします。(稲荷橋(渋谷駅南)〜恵比寿橋の区間は1986年に再改修)

恵比寿橋から(1997年)

 同じ場所から1997年に撮った風景です。当時は1929年〜31年にかけての改修工事による古びた三面張の護岸がほぼそのまま残っていて、河床の中央に造られた細い溝を水が流れていました。左岸に、前の写真にも写っている建物が2棟ほどありますが、そのほかの風景は大きく変わっています。川の上に張り出した大木も今はありません。
(1997年撮影)

三田用水道城口分水(1997年)

 新橋の下流側ではかつて右岸から三田用水道城口分水が合流していました。現在では跡形もありませんが、再改修が始まる前までは、合流部からわずかな区間が開渠で残っていました。写真は1997年の合流口の様子です。奥を左から右に向かって渋谷川が流れており、そこに手前から道城口分水が合流しています。大谷石の護岸の下部が格子状に飛び出ているのが特徴的です。
 道城口分水は道城寺口もしくは道城池口分水とも呼ばれ、1719年に、現在の都営バス渋谷自動車営業所付近にあった「田子免池」への分水((池)猿楽口分水と推定。前々回の記事参照→「【3-4】三田用水猿楽口分水」)と同時に「道城池」への分水として三田用水から引かれました。道城池は現在の恵比寿駅西側、恵比寿南1-4の辺りにあったと推定され、15世紀半ば頃まで池端にあった道城寺という寺院に由来しています。
(1997年撮影)

三田用水道城口分水の水路(1997年)

 合流口から上流方向を見たところです。数十mの区間ではありますが、水路が残っていました。トタンの小屋が蓋状に覆いかぶさっており、奥の通りより先は暗渠となっています。
(1997年撮影)

三田用水道城口分水の暗渠(1997年)

 その先、渋谷区新橋出張所の脇には水路跡が未舗装の路地として残っていました。つきあたりで暗渠跡の路地が直角に曲がり恵比寿方面に向かっていますが、かつてその辺りに2つの水車小屋がありました。道城口分水はもともとは恵比寿駅付近の渋谷橋のたもとで渋谷川に合流していた自然河川と思われます。三田用水から分水が引かれたのち、渋谷川沿いの水田に給水するために渋谷川に沿って水路が東に迂回するように延長されたようです。
 大正に入ると水田はなくなり流域は都市化され、昭和初期には水路は再び直接渋谷川に合流するようになりました。その際この迂回区間は埋め立てられましたが、再下流部だけは切り離され、周囲の排水路として残されたようです。
(1997年撮影)

道城口分水を遡る(2016年再撮影)

 こちらは上の写真と同じ場所の2016年の様子です。建物の幾つかは1997年当時のままですが、暗渠路地は舗装され、ずいぶんと雰囲気が変わりました。それでも車止めが、ここが暗渠であることを暗示しています。
(2016年再撮影)

失われた恵比寿駅以西の流路

 これより上流の水路跡は車道に呑み込まれ、消滅しています。かつての水路は恵比寿駅に突き当た駅の西側に続いていました。最近まで恵比寿駅東側の道路の下に、人が通れるくらいの暗渠が残っていたそうです。駅の西側、分水地点までの区間にもまったく手がかりはのこされていません。
 昭和初期の地籍図にはそのルートが記されています。現在の地図に重ねあわせてプロットしたのが下の地図となります。これを頼りに辿ってみます。
(地図出典:「国土地理院地図切り取りサイト」地図に内山模型製図社「東京市渋谷区地籍図」(1935)記載の流路をプロット)

道城池跡

 まずは恵比寿駅西口、かつて道城池があった場所を見てみましょう(地図①)。道路が分水路の跡で、右側に道城池があったと伝えられています。道城池は徐々に埋まり江戸末期にはなくなっていたとされていますが、一説には明治中期まで名残の小池があったといいます。池がなくなった後も、水路の両岸は明治後期まで水田になっていました。
(2016年再撮影)

糠屋水車跡

 恵比寿南2ー1付近から、谷の地形が明瞭になってきます。ここでは西側に長谷戸と呼ばれる細長い谷が分岐していました。谷は現在は駒沢通りとなっています。長谷戸の字名は現在小学校の名前として残っています。
 そして分岐点付近には「糠屋水車」がありました。道城口分水の三田用水からの取水地点付近には
幕末に目黒砲薬製造所が建てられ、明治18年からは同じ場所に目黒火薬製造所が稼動開始しました。この際、玉川上水から三田用水への分水口(下北沢)に火薬製造所用の分水口を併設して三田用水を増水し、水車を廻して動力や工業用水としました。道城口分水は利用された水の排水路として使われるようになり、そのため「火薬庫分水」とも呼ばれるようになりました。
 「糠屋水車」は、この火薬工場が稼動しない夜にならないと十分な水量が流れないので、夜にしか稼動できず、「おいらん水車」と呼ばれていたそうです。
 写真は水車があった場所よりやや上流、地図上②の地点です。路面に古びた細長いコンクリートの構造物が埋まっています。地図から判断すると水路はちょうどこの場所を左から右に向かって流れていたはずです。もしかすると、欄干の跡かもしれません。
(2016年再撮影)

分水の最上流部

 最後は地図の③の地点です。この区間は、かつての水路と重なって短い道路が通っています。路上自体には何の痕跡もありませんが、周囲の地形をよく見るとわずかに低くなっていることがわかります。奥の突きあたりは防衛省艦艇装備研究所です。目黒火薬製造所が昭和3年に移転した後、跡地には海軍技術研究所が出来ました。戦後その施設は防衛庁技術研究所に引き継がれ今に至ります。構内には三田用水の水を利用した実験用の大きな池があり、水の利用は1975年に水道に切り替えるまで続きました。
 道城口分水は構内を通る三田用水のどこかから分水されていたはずですが、古地図をいろいろと調べても明確に記されているものはなく、構内の水路が何処を通っていたかは不明です。
(2016年再撮影)

※三田用水についてはサイト「ミズベリング」に記事を書いていますので、ご参照ください→「水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方 第10回 台地の上の、水のない水辺 三田用水跡をたどる」

新橋付近
 
 再び渋谷川に戻ります。1997年に道城口分水の合流地点から少し下った「新橋」から上流方向を望んだ写真です。周囲の建物は高層化が進んでいますが、川は戦前の護岸が残っていました。
(1997年撮影)

玉川水車と福沢水車

 一方こちらは同じ1997年、新橋から下流方向を望んだものです。再改修されたばかりの真新しい護岸が続いています。奥の左岸の緑地、臨川児童公園のところには玉川水車(広尾水車)がありました。この近辺の渋谷川は水車用の堰があったため淀みとなっていて、南側沿いには僅かな水田をはさんで土の崖となっており、流れの上には木々が張り出していたそうです。現在川は再改修で人工的なコンクリート護岸となっていますが、川沿いは以外に緑が濃く、当時の姿を何となく想像できそうです。
 なお、玉川水車より下流側、天現寺橋の手前には、福沢諭吉が所有していた水車があり、それより下流は十分な傾斜がなかったため水車が設置されることはありませんでした。
(1997年撮影)

水抜き穴からの湧水

 川沿いのあちこちでコンクリート護岸にあけられた水抜きの穴から湧水が勢いよく湧き出しています。写真の場所は1997年に訪問した際も同じように水が湧き出していました。

天現寺橋

 笄川の暗渠が天現寺橋の下で合流しています。ここより下流は渋谷区から港区に移り、渋谷川は古川と名前を変えます。

古川へ変わる渋谷川

 1997年に、天現寺橋から下流の「古川」を望んだ写真です。河床は改修されているものの、護岸は戦前のものがまだ残っています。(現在では大幅に改修されています。)
(1997年撮影)

 以上で渋谷川中流編は終わりとなります。以降は渋谷川下流部である古川の水系を辿っていくことになりますが、その前に、中流部最大の支流である笄川の水系を辿ってみることとします。


2016/01/17

【3-5】いもり川

(写真は特記のない限り2005年撮影のものです)

 続いて、三田用水道城口分水の合流点のやや上流で渋谷川に合流していた「いもり川」を上流から辿ってみます。いもり川は渋谷区渋谷4丁目、青山学院東門辺りの低地から流れ出し、鶴沢~羽沢と呼ばれた谷筋を、川沿いの池の湧水をあわせて北から南に流れ渋谷川に注いでいました。現在全区間が埋め立てられたり暗渠となっています。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工) 

いもり川の水源

 水源だった青山学院一帯はもとは伊予西条藩の下屋敷で、青山学院東門のそば、現在「ウェスレーホール」が建っている場所に水源の湧水池がありました。この池は明治初期にはなくなっていたという説もありますが、明治19年内務省刊行の「実測東京全図」にはしっかりと描写されています。1991年に一帯の遺跡発掘が行われた際にこの池も存在が確認されましたが、かなりの水量が湧き出し途中までしか発掘できなかったとのことで、現在でも水脈が残っていることが窺われます。
 大岡昇平の「少年」に掲載の大正後期の地図ではこの池はなくなっていますが、ここより南側に池があったことが記されています。

「中学部の校舎の東側、雨天体操場とは反対の方角に理化学実験室があった。木造平屋建の陰気な建物だったが、校舎より5メートルばかり低くなっている。その辺から外人居住地区の東南にかけてずっと低地が続いていて、池があった。一つの流れが流れ出し、羽根沢の赤十字病院の北側まで続く窪地をつくっている。末は広尾で渋谷川に合する。渋谷の古名「谷盛荘」の痕跡を残したイモリ川である。」
(地図出典:大岡昇平「少年−ある自伝の試み」1975)

六本木通りからみたいもり川跡

 現在青山学院構内の谷筋には校舎が立ち並び川の痕跡はありません。東京オリンピック時に開通した六本木通りの南側、川跡を通る道路沿いに常陸宮邸がありますが、その緑だけが往年の風景を偲ばせます。

常磐松の池と東京農学校

 写真の道路の辺り、最終的には道路の西側に沿って、いもり川が流れていました。奥の森は常陸宮邸です。一帯は薩摩藩島津家の屋敷から明治初期に常磐松御料地となり、明治末まで御料乳牛場として皇室用の牛乳を生産していました。
 いもり川の谷の斜面は針葉樹の林となっていて、写真右側、南青山7-1の窪地には戦前まで「常磐松の池」がありました。そして谷底にはいもり川にそって細長い水田が続いており、1898年敷地に御料地の一角にキャンパスを開いた東京農学校(のちの東京農業大学)が、演習田として利用していました。(学校は空襲での焼失をきっかけに、1946年に世田谷に移転)

暗渠跡と常盤松、川名の由来

 東4丁目交差点の五差路の南側に階段で下りる暗渠が残っています。一帯はもともとは常磐町という町名で、交差点から西に少し進んだところに、戦前まで「常盤(常磐)松」と呼ばれる松の老木がありました。戦争で焼けた現在は「常盤松の碑」だけが残っています。
 いもり川というユニークな名称の由来にはいくつか説があります。川にイモリが生息していたからという説が一般的で、実際腹に赤い斑点のあるイモリが多く棲息していたようです。一方で渋谷一帯の中世の呼び名であった「谷盛庄」に由来する説もあります。そしてこの常磐松に関連する由来として、源義朝の側室であった「常盤御前」が牛若丸など3人の子供を連れてこの近辺を通りかかった際に、流れていた小川で子供や自分の「いもじ」(腰巻)を洗い、そばにあった松の木に掛けたことから、この松を常盤松、小川を「いもじ川」と呼ぶようになり、のちに「いもり川」に変化したという言い伝えもあるそうです。常磐松の樹齢は400年ほどだったとのことなので、時代はあいませんが。
 なお、皿は割れやすいということで縁起を担いで、町名の「盤」はのちに「磐」の字に置き換えられました。

 谷の西側の崖に沿って、暗渠が蛇行しています。この区間は通り抜ける人も少なく周囲から隔絶されていて、秘密基地のような雰囲気を漂わせています。

 しばらく進むと暗渠は階段となって途切れてしまい、もとの六本木通りからの道に戻ります。この先から「いもり川階段」までの区間は戦前には暗渠化されていたようです。

地籍図に見るかつての流路

 暗渠化される前のルートは昭和初期の地籍図で確認できます。左上がさきほど取り上げた暗渠となっている区間。そしてその先、通りから東側にはみ出して蛇行している様子が伺えます。現在この部分の痕跡はありません。
(地図出典:内山模型製図社「東京市渋谷区地籍図」(1935)を加工)

いもり川階段と羽沢の池

 東京女学館の南側まで来ると「いもり川階段」があります。ここを降りると再びはっきりした暗渠が現れます。東京女学館の場所には大正13年まで感化院があり、その構内に湧水池「羽沢の池」がありました。
 羽沢(羽根沢)という地名も常磐松と同じく源氏関係の由来が伝えられています。それによれば、鎌倉時代、源頼朝の飼い鶴がこの地に飛んできて卵を産み、かえったヒナが初めて羽ばたいたので羽沢や鶴沢と呼ばれるようになったそうです。
 一方で、「赤羽」「羽根木」など各地にある「羽」のつく地名は粘土や泥を指す「埴(はに)」という言葉と関連が深いと考えられており、この羽沢の地名も粘土質の土が取れる地層が露出していた場所だったのかもしれません。

急傾斜

 暗渠沿いの土留めの石垣を見ると、かなりの傾斜であることがわかるかと思います。ふだんはアメンボの泳ぐ静かなせせらぎであったけど、雨の後などはかなりの急流となり、上流からカエルが流されてきたりしたそうです。

※2016年追記:現在この付近の風景は激変しています。

暗渠の道

 いもり川階段より下流部は1960年代後半まで開渠で残っていたようです。写真の区間は暗渠化直前は道路に並行して川が流れていました。

古い塀

 いもり川の流れる羽沢は深いV字谷となっています。谷底の幅は50m足らず、両側の台地とは12mほどの標高差となっています。写真の坂は100m足らずでその標高差を下るため滑り止めがついています。何か由緒ありそうな古い塀が残っていました。

※2016年追記:この塀は2010年には消失しました。

羽澤ガーデン

 反対側の斜面には満鉄総裁の邸宅跡を利用した「羽澤ガーデン」があります。満鉄総裁や東京市長を務めた中村是公の邸宅を利用した高級料亭・結婚式場・レストランで、1915年(大正4年)に建てられた邸宅は、戦後しばらくはGHQの宴会場としても使われていたといいます。一方で庭園は近隣の住民にも開放されていて、地域のオアシス的な存在ともなっています。

※2016年追記:羽沢ガーデンは2005年末に営業を終了。跡地にはマンション建設が計画されました。近隣や文化人による反対運動や訴訟が起こりましたが、最終的には、2012年渋谷区より開発許可が下り、邸宅や庭園は取り壊され、2014年にはマンションが竣工しました。

大谷石の崖沿い

 川は谷底の東縁を流れていました。川の左岸、大谷石の擁壁となっているところは、かつては針葉樹の茂る急斜面となっていました。右岸側は細長く延びる水田地帯となっていたようです。

ささやかな暗渠

 一方、谷底の西縁を通る道路にも、大正末期〜昭和初期頃までは水路が残っていたようです。もともとは谷底の両側に水路を通し、その間に水田を設けてそれぞれの水路を水田に給水・排水に利用していたのでしょう。両側の水路を結んでいた水路の名残と思われる、コンクリート蓋の暗渠が残っています。
(2010年撮影)

歩道のマンホール

 羽沢の谷は臨川小学校の北西側で渋谷川の谷に出て終わります。道路の歩道のところをマンホールの続く暗渠が通っています。臨川(りんせん)小学校は1877年(明治10年)に開校した下渋谷地区で最も古い小学校で、渋谷川を臨む立地からその名がつけられたともいわれています。

日本の理髪鋏の原点となった合流地点

 暗渠は明治通りを越えて児童遊園の下で渋谷川に注いでいます。明治通りには「どんどん橋」がかかっており、最近まで欄干が残っていたそうです。橋の名前の通り、いもり川が渋谷川に合流する手前の地点は滝になっていて音が響いていたそうです。
 この落差を利用して明治期には水車が設置されました。最初に設置したのは国産初の理髪バサミを作った友野義国です。もともとは刀職人だった彼は、西洋のハサミを参考に1877年(明治10年)、指輪の接点に長めの突起を持ち、また指輪にも傾斜をもたせた日本独自のハサミを作り出しました。そして水車の動力を利用し、鋏の製造を試みました。結局水車の動力が足りずに、穴開け程度にしか利用できなかったといいますが、彼の考案した鋏の形態は現在の2本の理髪バサミに引き継がれているそうです。そののちには「ミルク製造用」の水車が改めて架けられたそうです。
 下の写真はいもり川の合流口です。といっても今では下水となった暗渠がオーバーフローした時の排出口となっていて、基本的には水は流れていません。(写真で流れ出しているはこの区間で湧いた水か、あるいは一時的な工事などの影響でしょうか)
 明治時代まで、この辺りの渋谷川沿い北側は、わずかな水田を挟んで梅の花が咲く土手となっていて、つくしやたんぽぽが生え、水際ではセリが採れたそうです。そして土手と水田の間には湧水も湧き、野菜の洗い場となっていたとか。また、対岸(道城口分水が合流するあたり)は杉林だったそうです。今では全くその面影はありません。

 次回は1990年代末まで一部が残っていた道城口分水(火薬庫分水)を紹介したのち、渋谷川が古川と名前を変える広尾橋まで辿っていきます。

2016/01/14

【3-4】三田用水猿楽口分水

(写真は特記のない限り2005年撮影のものです)

 三田用水鉢山口分水に引き続いて、今度は三田用水猿楽口分水を上流側から辿ってみます。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

分水地点

 猿楽口分水は、鉢山口分水の分岐点であった西郷橋から、旧山手通りを350mほど南東に進んだ猿楽町18番地で三田用水から分水されていました。分水口のそばには6~7世紀の古墳時代末期の円墳である猿楽塚があり、町名の由来となっています。流路は三田用水から分かれて写真の道路の位置をまっすぐ下ったあと、猿楽町20番地付近で右(東)に折れて代官山駅のある谷筋へと流れていました。現在水路の痕跡はまったく残っていません。
 流路が折れる場所には水車小屋があり、直径7.5mもある渋谷地区最大の水車が廻っていました。明治時代後期の地形図を見ると、どうやら三田用水の分水点からこの水車までの水路は築堤をつくりその上を流していたようで、これにより落差をつけて上掛けで水車を廻していたようです。

地籍図に見る水路

 猿楽口分水は、もともとは三田用水が上水だった時代、1719年(享保元年)に、渋谷川沿いの御用地の池であり白鳥の餌付け場だった「田ごめ池」(田子免池)の水を引くために分水されたといわれています(後述)。餌付けは1745年頃には取りやめとなり、その後は灌漑用としての用途がメインとなったと思われます。分水は東横線代官山駅付近の細い谷戸や渋谷川沿いにひらかれた水田に水を送っていましたが、大正期以降は流域の市街地化でその役割を失っていきます。
 現在、水路の大部分は道路や建物となっていて痕跡はほとんど残っていませんが、昭和初期の地籍図をみると市街地化後の流路が確認できます。地図左下、三田用水から分かれた分水は道路の右側を流れていきますが、ちょうど上の写真で道路の右側に不自然な幅広の歩道があるのに対応しているように思えます。
(地図出典:内山模型製図社「東京市渋谷区地籍図」(1935)を加工)

代官山駅前

 八幡通りから代官山駅前にカーブしながら下っていく道です。左手が「代官山アドレス」で、かつては同潤会アパートが並んでいました。水路は上の地図でも判るように、道路の右側に沿って流れたのち、道を離れて代官山駅の南側をいったん回りこんでいました。

東横線と同潤会アパート

 もともと川沿いの谷底は水田に、斜面や丘は林になっていましたが、1927年(昭和2年)、谷に沿うように東急東横線が開通し、代官山駅が開業します。そして丘の斜面には同時期に同潤会アパートが竣工しました。同潤会は関東大震災後、不燃の鉄筋コンクリート造住宅を安定供給することを目指して設立され、当時としては非常に近代的な住宅を都内各地に建設しました。代官山の同潤会アパートは、後年、木々の鬱蒼とした緑に包まれた谷の斜面に家屋が点在する独特の風景が名物となっていましたが、1996年に取り壊されて大々的に再開発が行われ、今では「代官山アドレス」の高層マンションが聳え立っています。下の写真は在りし日の同潤会アパートの一角です。
(1993年撮影)

空き地として残る流路跡

 代官山駅の北西側には、わずかに流路跡が空き地となって残っています。猿楽口分水で、はっきりと流路跡が判るのはこの場所だけです。

新坂橋

 そして、流路跡のすぐ傍、東横線の踏切脇には何と「新坂橋」と書かれた橋が残っています。

 橋は欄干の片側の全体が残っており、線路側の親柱には大正十三年と彫られています。同潤会アパートや東横線よりも古く、関東大震災の頃からこの場所にあったこととなります。ブロック塀の裏側がさきほどの流路跡となります。

赤煉瓦の架道橋

 流路は東横線沿いの道に沿って流れた後、山手線に突き当たる地点で90度右に曲がって南下し、恵比寿西1丁目交差点で東に曲がり道路に沿って山手線の「庚申橋架道橋」をくぐっていました。架道橋は煉瓦造りとなっており、関東大震災前、もしかすると明治18年の山手線開業当時からのものかもしれません。
 流路はそして庚申橋西交差点のところで再び北に曲がって、比丘橋下流側で渋谷川に合流していました。このように流路が大きく迂回しているのは、渋谷川右岸(西側)に広がる水田に水を引き入れるためでした。これらの水田は渋谷川の水位が低いため、より高いところから流れてくる猿楽口分水の水を利用していたのです。


大正末の地図に見る下流部

 大正末期の地図では、下流部で水路が迂回していた様子を確認することができます。この時点ではまだ東急東横線は開通していません。代官山から流れてきた水路は山手線の線路にぶつかったのち南下しています。線路沿いの水路は山手線開通後に出来たようです。
(地図出典:「東京府豊多摩郡澁谷町平面圖」1926)

最下流部

 最下流部の流路があった辺りには現在細い道路が通っています。そこにはまったく川が流れていたころの面影はありません。

比丘橋と田子免池

 渋谷川に架かる比丘橋の下流側に、かつて猿楽口分水が注いでいた名残の雨水合流管が口を開いています。天現寺橋までの「渋谷川」沿いでは唯一この一角だけ、川沿いに直接道路が接しています。
 先に記したように、比丘橋と氷川橋の間の渋谷川西側には、かつて白鳥の飼付場としても利用された「田子免池(たごめんいけ)」がありました。1745年頃の白鳥の飼付は取り止め後、周囲は水田となって、田子免池は徐々に埋め立てられていったようです。明治38年には火力発電所が出来、わずかに残った池に渋谷川の水をひき冷却用として利用していました。発電所は周囲への煙害のため、できてすぐに電力不足のときだけの稼働となったそうです。そして池は関東大震災後、瓦礫で埋め立てられなくなりました。現在この場所は東京電力の変電所と都バス車庫となっています。