2016/11/26

もくじ

順次公開していきます。公開している項目には記事へのリンクがついています。

はじめに
東京の水覚書 →2015/11/19公開

第1部 渋谷川水系の川と暗渠をたどる
1章. 渋谷川上流部(穏田川)とその水系
【1-1】渋谷川上流部とその水系の概要 →2015/11/21公開
【1-2】渋谷川上流(1)「千駄ヶ谷」(新宿御苑)の源流 →2015/11/21公開
【1-3】渋谷川上流(2)玉川上水余水吐〜本流原宿橋まで →2015/11/23公開
【1-4】玉川上水原宿村分水(1)原宿村分水、千駄ヶ谷分水 →2015/11/25公開
【1-5】玉川上水原宿村分水(2)神宮北池の流れと原宿村分水下流 →2015/11/27公開
【1-6】渋谷川上流(3)本流 原宿橋〜渋谷駅まで →2015/11/29公開
【1-7】明治神宮「清正の井」からの川と東池からの川 →2015/12/01公開

2章. 宇田川とその水系
【2-1】宇田川水系の概要 →2015/12/04公開
【2-2】河骨川(1)上流部 →2015/12/04公開
【2-3】河骨川(2)下流部 →2015/12/06公開
【2-4】宇田川初台支流(初台川)(1)上流部 →2015/12/09公開
【2-5】宇田川初台支流(初台川)(2)下流部 →2015/12/11公開
【2-6】宇田川富ヶ谷支流 →2015/12/14公開
【2-7】宇田川(1)狼谷の上流部 →2015/12/17公開
【2-8】宇田川(2)上原支流と宇田川中流部 →2015/12/20公開
【2-9】宇田川(3)神山町の支流と宇田川下流部 →2015/12/23公開
【2-10】宇田川松濤支流・三田用水神山口分水と神泉谷支流 →2015/12/27公開

3章. 渋谷川中流部とその水系
【3-1】渋谷川中流部水系の概要 →2016/1/7公開
【3-2】渋谷川中流部(1)渋谷川中流部と黒鍬谷の支流 →2016/1/7公開
【3-3】三田用水鉢山口分水 →2016/1/11公開
【3-4】三田用水猿楽口分水 →2016/1/14公開
【3-5】いもり川 →2016/1/17公開
【3-6】渋谷川中流部(2)三田用水道城口分水と渋谷川中流部その2 →2016/1/22公開

4章. 笄川とその水系
【4-1】笄川水系の概要 →2016/1/30公開
【4-2】笄川上流部 →2016/1/30公開
【4‐3】笄川長者丸支流 →2016/2/3公開
【4-4】笄川根津邸支流 →2016/2/7公開
【4-5】蛇が池支流、龍土町支流、笄川中流部 →2016/2/13公開
【4-6】笄川下流部と高樹町支流、宮代町支流 →2016/2/19公開

5章. 古川(渋谷川下流部)とその水系
【5-1】古川水系の概要 →2016/3/30公開
【5-2】麻布本村町支流(竹ケ谷ツ支流) →2016/3/30公開
【5-3】三田用水白金分水(1)上流部と自然教育園の流れ →2016/4/17公開
【5-4】三田用水白金分水(2)伊達跡の支流と蜀江台方面からの支流 →2016/4/27公開
【5-5】三田用水白金分水(3)下流部と分流の痕跡 →2016/5/18公開
【5-6】白金三光町支流 →2016/5/27公開
【5-7】玉名川(1)三田用水分水地点から覚林寺まで →2016/6/6公開
【5-8】玉名川(2)樹木谷の支流と下流部 →2016/6/17公開
【5-9】麻布宮村町支流(1)がま池からの流れ →2016/7/7公開
【5-10】麻布宮村町支流(2)宮村町の湧水の流れ →2016/7/15公開
【5-11】藪下の支流 →2016/9/29公開
【5-12】芋洗坂〜麻布十番の流れ(吉野川)と柳の井戸 →2016/10/6公開
【5-13】麻布狸穴町の支流(青山上水排水?) →2016/10/16公開
【5-14】古川(1)天現寺橋〜古川橋 →2016/11/21公開
【5-15】古川(2)二之橋〜河口 →2016/11/26公開


第2部 鮫川・桜川の暗渠をたどる
第3部 水窪川・弦巻川の暗渠をたどる




【5−15】古川(2)二之橋〜河口まで

(※写真はすべて2005年撮影です。現状とはだいぶ異なっている区間もあります)

 引き続き、渋谷川の下流部古川を河口まで辿っていきます。まずは今回の範囲の地図を。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

三之橋と入間川

 古川橋から一の橋にかけて、古川沿いは胃袋のようなかたちをした低地が広がっています。この低地は江戸初期頃までは大きな池だったと推定されています。それを裏付けるように、関東大震災の際は周囲に較べ震度が大きかったことがわかっており、もともと沼地で地盤が弱かったことがその原因とされています。
 この池から流れ出す川の流路は現在の古川のそれとはと異なっていたという説も唱えられています。三の橋の東方、慶応大学の南側の三田台地が鞍部状に低くなっているのですが、川はそこから流れだし、東京湾へと繋がっていたのではないか、というのです。
 鞍部を越えた北東方向にはかつて、芝2丁目32付近から現在の「旧海岸通り」のところから東に「重箱堀」まで延びていた「入間川(いりあいかわ)」と呼ばれた堀割があり、周囲の町の下水が流れ込んでいました。この入間川は、もともとの古川本流の最下流部だったといわれています。新編武蔵風土記稿によれば、かつて三田村付近で古川と分かれ、荏原郡と豊島郡の郡界を流れて本芝町に至り、里俗入間川に通じ芝橋の東で海に流れていた、とされています。
 ただ、標高を見てみると、この鞍部は10mほどはあります。三之橋付近は標高5.5m前後、そして現在の古川下流方向の麻布十番付近は4.8〜5mと、自然に水が流ればこの鞍部を越えていたとは考えにくいところです。
 古川のかつての流路はこの鞍部ではなく、一之橋の手前から分かれて、三田の台地の北側を回りこみ流れていたとの説もあり、地形的にはこちらのほうが妥当に思えます。新堀川開削(後述)の時に、その大部分が埋められ、下流の入間川の区間だけ残ったのではないでしょうか。なお、入間川は江戸末期より護岸の崩れなどで埋まり始め、1918年には埋め立てられてしまいました。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)


二之橋と三田台地


 三之橋、そして南麻布一丁目児童遊園橋という小さな橋に続いて二之橋が架かっています。二之橋は、橋を渡ったところにあった毛利日向守屋敷に由来して、日向橋とも呼ばれていました。この付近の古川右岸(東側)は、南北に延びる三田台地の北端となっていて、左岸に比べだいぶせり上がっています。台地の上には明治時代には渋沢邸(栄一、敬三)、蜂須賀邸、三井邸、松方邸と屋敷が続いており、更に江戸時代に遡れば、大名屋敷が並んでいました。現在渋沢邸は見た会議所、蜂須賀邸はオーストラリア大使館、三井邸は綱町三井倶楽部、松方邸はイタリア大使館となっています。三井倶楽部内は三田台地の斜面に面していて、崖下には湧水池を利用した日本庭園があります。そして名水といわれた「渡辺綱の産湯の井戸」が残っているといいますが、残念ながら一般非公開です。

小山橋から

 二之橋の次に架かる小山橋は、もともと私設橋だったのが、1955年に区に移管されたといいます。橋の前後の古川沿いは、新広尾公園となっていて、ここにも護岸を一部きりとった親水スペースが出来ています。しかし、川の水は淀んでいるし、高速道路が多い被さっていて、やはりとても水に親しむ雰囲気ではありません。

一之橋と麻布十番

 小山橋の次は一之橋です。橋のたもとでは、がま池や宮村町からの流れや薮下からの流れをあつめた水路が合流していました(→記事「【5-12】芋洗坂〜麻布十番の流れ(吉野川)と柳の井戸」参照)。左岸の護岸からは湧水も流れ込んでいます。
 明暦の大火以後の江戸の都市改造に伴い、1675年、古川河口の金杉橋から一之橋までの区間を掘り下げ、川幅を広げて通船を可能とする改修工事がされました。沿岸には河岸(荷揚げ場)がつくられ、麻布十番には川から分けられた堀留がつくられました。
 一説によれば、古川の下流は先に触れたようにもともとは現在よりもう少し南寄りの入間川のルートが本流で、この工事により本流が付け替えられたとされています。金杉橋から一之橋の区間が「新堀川」とも呼ばれるようになったのは、この付け替えで新たに水路が作られたからだといいます。
 ちなみに「麻布十番」の地名は、この工事の際に工区にふられた番号のうちのひとつで、工事の完了後も長い間十番の標識が残っていたことに由来します。更にこの後1698年、白金御殿の造営に伴い、古川はさらに四の橋まで掘り下げられます。

一の橋下流から新堀橋

 古川は一の橋で再度90度曲がり、東へと流れていきます。ここより下流は汽水域(ここまでは感潮域)となり、常に海水の混ざった水が流れています。何となく潮の香りがするような気もします。奥に見えるのは新堀橋です。新堀橋の手前では、麻布狸穴町からの流れが合流していました(→「【5−13】麻布狸穴町の支流(青山上水排水路?)」参照)。

中之橋と赤羽河岸
 
 新堀橋の次の中之橋から上流方向を見た様子です。川幅は、16~17mほど。水はすっかり淀んでいます。護岸には潮の満ち干きの跡があり、川というより運河のような印象です。ここより先河口までは、高速道路が完全に流路と重なって蓋のようになってしまっています。
 中ノ橋と赤羽橋の間はかつて赤羽河岸と呼ばれる河岸でした。川の南側は明治初期には造兵廠が出来、造兵廠の荷揚げ場として倉庫が並びました。造兵廠が移転した大正期には青物市場が設けられています。
 造兵廠が移転した跡地は広大な空地となり、「有馬が原」とも呼ばれました。現在の都立三田高校付近には「有馬が池」と呼ばれる池があり、永井荷風「日和下駄」にも描写されています。池は三田台地の北東の斜面下にあり、湧水池だったと思われます。同じ敷地内には化け猫退治の芝居で知られる猫塚もあって、古墳跡だったとも、話題作りにわざと作った塚だったともいわれています。

赤羽橋と新堀河岸

 中之橋の次に架かる「赤羽橋」は、国道1号線が古川を渡る橋であり、交差点名や地下鉄の駅名としてもその名を知られています。ただ、橋そのものは高速の下に隠れ、あまり存在感はありません。古川はこの辺りでは「赤羽川」とも呼ばれていました。「赤羽」はもともとは「赤埴」だったとも言われています。「埴」は、埴輪の素材となるような、粘土質の土が取れる場所につけられることが多い地名です。川の左岸側に迫る芝台地の裾野には芝丸山古墳があり、古くから人が住んでいたことがわかります。
 赤羽橋から将監橋の間の南岸は「新堀河岸」という河岸でした。江戸期は薩摩藩の荷揚げ場として利用され、薩摩河岸とも呼ばれていたといいます。川沿いには舟運を利用した、木材、石材、薪炭などの商店が並んでいたそうです。現在でも赤羽橋下流側の右岸には現役の船着場があり、荷揚用のクレーン(写真奥の赤い柱)が設けられています。

芝園橋

 赤羽橋の次には芝園橋が架かっています。現在の橋は1984年に架け替えられたものですが、大正15年の架橋時の親柱がそのまま残されています。

将監橋と桜川合流地点

 将監橋の北側では桜川が合流していました。桜川は関東大震災後の復興計画のなかで暗渠化されましたが、現在でも古そうな石組みに囲まれた、暗渠の合流口が残っています。桜川は江戸時代のいわゆる下水(上水でない市内水路)で、遡って行くと神谷町から溜池、赤坂を経て、四谷三丁目の鮫河谷にいきつきます。こちらについては別の章を設けて紹介することとします。

瘡守稲荷

 将監橋の北西の袂には、通元院という芝増上寺の末寺があります。一間普通の住宅のような目立たないお寺ですが、その入り口に瘡守稲荷(かさもりいなり)大明神の祠があります。皮膚病治癒の稲荷社です。祠の前の石塔は、元禄7年(1694年)造立の納経石塔で港区の文化財となっています。

金杉橋の船溜まり

 古川は金杉橋近辺では「金杉川」とも呼ばれていました。川面には釣り船や屋形船がたくさん繋留されています。川の南側にあたる金杉町は、明治初期までは漁師町で、江戸城へ献上する魚も獲られていたそうです。

船宿

 金杉橋下流側の左岸(北側)はかつての町名を湊町といい、現在では船宿が何軒か並んでいます。写真はその中の一軒、「縄定」で、もともとは漁師を営んでいたそうです。船宿の屋形船はここから隅田川や東京湾へと繰り出していきます。

新浜橋

 浜松町のJR線東側、新浜橋から見た古川です。ここにも船が繋留されています。古川の左岸側は明治初期より東京瓦斯の敷地となっていて、現在も東京ガスの本社が建っています。そして、右岸側は明治中期に芝浦製作所の工場が出来ました。こちらも現在敷地がそのまま東芝の本社となっています。

浜崎橋ジャンクション

 川を覆っていた首都高速道路は浜崎橋ジャンクションで左右にわかれ、古川はようやく空を取り戻します。が、ここはすでにほとんど海です。芝浦運河が南側から合流しています。

古川河口
 
 古川は新浜崎橋の東側で、東京湾に注ぎ込んでいます。河口の直前にはもうひとつ、小さな橋がかかっていますが、名前はわかりません。海の向こう側にはレインボーブリッジが見えます。水源の新宿御苑から11km、渋谷駅で地上に姿を現してから7km、天現寺橋で古川と園名を変えてからだと4.4km。今でも新宿御苑にふった雨水、わき出した湧水の一滴がここまでたどり着くことはあるのでしょうか。

 以上で、「東京の水 2005 Revisited 2015 Remaster Edition」、"第1部 渋谷川水系の川と暗渠をたどる" を終わりにしたいと思います。2005年取材当時の写真を中心に、「東京の水」オリジナル版の1997年取材時の写真や、最近の再取材写真を交えてここまで渋谷川・古川水系を追ってきました。たった10年、されど10年。変わらない風景もあれば、ずいぶんと変った風景もありました。そしてこれからも東京の水をとりまく風景は変わっていくことでしょう。ひとつの時期の記録として今一度最初から読み返していただければと思います。
 ひきつづいて第2部では、将監橋で合流していた桜川の水系を、渋谷川・古川水系の姉妹編として取り上げていきます。桜川を上流に向かって辿っていくと、いきつく水源は渋谷川の水源のすぐ近くとなり、都心の南半分を反時計周りにぐるっと辿るかたちになります。



2016/11/21

【5−14】古川(1)天現寺橋〜古川橋

(※写真は特記ない限り、2005年撮影です。現状とはだいぶ異なっている区間もあります)

 ここまで渋谷川の水系を本流、支流にわたり紹介してきましたが、最後に天現寺橋より下流、「古川」と呼ばれる区間を河口まで追っていきます。この区間は全区間、暗渠化はされていません。最初に流域の段彩図を。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

天現寺橋と笄川合流口

 渋谷川は広尾の天現寺橋で笄川を合流します(→「【4−1】笄川水系の概要」参照)。そしてこれより下流、川沿いは渋谷区から港区に変わり、渋谷川も古川と名前を変えます。川沿いに道がある区間はほとんどないので、ここから先、主に古川に架かる橋の上から、川の様子を見ていきます。
 天現寺橋から狸橋の間は他の区間には見られない護岸となっていて、右岸の慶応幼稚舎から木々がせり出しています。(※2016年現在再改修)以前は天現寺橋に平行してすぐのところに慶應橋が架かっていたといいます。

狸橋と三田用水白金分水合流口

 天現寺橋の次の橋は狸橋です。白金分水の章(→「【5−5】三田用水白金分水(3)下流部と分流の痕跡」参照)で触れた通り、狸橋の名は橋の袂にあった蕎麦屋が、狸に化かされて木の葉のお金で蕎麦を食べられた伝承に由来します。狸橋から下流方向を見ると、白金分水の合流口が望めます。四角く開いた合流口はかなり古そうです。橋の南側はかつては福沢諭吉邸となっていました。

私設橋「青山橋」

 狸橋に続いて、亀谷橋、養老橋と、人しか渡れない小さな橋が続きます。いずれももともとは私設橋だったそうです。そしてその次に架かる「青山橋」も明治時代に架けられた私設橋で、1930(昭和5)年に鉄筋の橋に架け替えられたものが残っているのですが、現在では両端が塞がっていて渡れず、トマソン状態となっています。

※青山橋は一帯の護岸改修により、2011年撤去されてしまいました。
(2011年撮影)
五之橋と白金三光町支流合流口

 青山橋のすぐ東側に架かる五之橋は、1935年(昭和5年)の竣工で、青山橋と並び、古川に架かる橋では数少ない戦前からの橋です。水色の鉄骨が印象的です。たもとでは白金三光町からの支流(→「【5−6】白金三光町支流」参照)が合流しており、丸い排水溝が口を開けています。

戦前の護岸

 狸橋から五之橋にかけては、戦前の改修工事でつくられた古い護岸がそのまま残っている区間が多く、川底も土がむき出しとなっているようで雑草が生えていたり、鴨が泳いでいたりと川らしさを何とかとどめています(2016年現在、改修工事中)。しかし、五之橋を過ぎるとやがて、首都高速2号線が川面に覆いかぶさってきます。

白金公園橋からみた白金公園の親水テラス

 四之橋の下流側、高速道路がちょうど川面に架かる付近には白金公園橋が架かっていて、白金公園に繋がっています。公園には「古川の水辺に親しめるように」ということで親水テラスが設けられていますが、高速道路に覆われた陰気な水面に親しもうなどという人は果たしているのでしょうか。

四之橋

 四之橋では、川面は完全に高速道路の下となり、昼でも薄暗く暗渠よりも殺伐とした雰囲気を漂わせています。北岸には1698年、白金御殿が造成され、その際将軍が船で御殿に来られるよう四の橋まで川底が掘り下げられ満潮時には汐が入るようになりました。流れる水を見る限り、現在はおそらくもう少し下流、古川橋付近までは感潮域のような印象です。なお、四之橋近辺では麻布本村町からの支流(→「【5−2】麻布本村町支流(竹ケ谷ツ支流)」参照)が合流していました。

新古川橋から見た玉名川の合流口

 次の新古川橋はその名の通り、古川橋の上流側に1935年に新たに架けられた橋です。袂では、玉名川(→「【5−7】玉名川(2)樹木谷の支流と下流部」記事参照)が合流していました。現在でも暗渠の名残の合流口が残っています。

古川橋と新広尾町のスラム

 古川は水量の変化が激しかったせいか、川沿いは明治中頃まで空き地となっており、葦の生い茂る湿地となっていました。日清戦争が始まると川の南岸の空き地には板金やメッキ、鋳物といった町工場が並び、また沿岸の急速な都市化に伴い北岸沿いは明治末から大正期にかけてスラム化しました。スラムの立ち並ぶ、天現寺橋から一の橋にかけての川沿いの細長い区間は明治末には「新広尾町」となりました。
永井荷風の「日和下駄」の「第六 水」の章では古川橋近辺の様子が描かれています。
「溝川が貧民窟に調和する光景の中、その最も悲惨なる一例を挙げれば麻布の古川橋から三之橋に至る間の川筋であろう。ぶりき板の破片や腐った屋根板で葺いたあばら家は数町に渡って、左右から濁水を挟んで互にその傾いた廂を向い合せている。春秋時候の変り目に降りつづく大雨の度ごとに、芝と麻布の高台から滝のように落ちてくる濁水は忽ち両岸に氾濫して、あばら家の腐った土台からやがては破れた畳までを浸してしまう。雨が霽れると水に濡れた家具や夜具蒲団を初め、何とも知れぬ汚らしい襤褸の数々は旗か幟のように両岸の屋根や窓の上に曝しだされる。そして真黒な裸体の男や、腰巻一つの汚い女房や、または子供を背負った児娘までが笊や籠や桶を持って濁流の中に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れてくる雑魚を捕らえようと急っている有様、通りがかりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の下に、或時はかえって一種の壮観を呈している事がある。かかる場合に看取せられる壮観は、丁度軍隊の整列もしくは舞台における並大名を見る時と同様で一つ一つに離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、此処に思いがけない美麗と威厳とが形造られる。古川橋から眺める大雨の後の貧家の光景の如きもやはりこの一例であろう。」
現在では川沿いにはビルが建ち並び、川面は高速道路に覆われ、南岸にあった町工場のほとんどは高度経済成長期~オイルショック期に郊外移転して当時を彷彿させるものはなにも残っていません。
 古川橋下流側の右岸には、暗渠の合流口が開いています。こちらはかつて三田の寺町の湧水や下水を集めていた支流の暗渠です。合流口の周辺を見ると、護岸が作られた頃には開渠だったかのような痕跡が見えます。

支流の水路敷

合流口の真上には、水路敷が細長い空地として残っていました。(現在消滅)。
恵比寿駅付近より東に向かって流れていた古川は古川橋を過ぎるとほぼ直角に曲がり、しばらく北進して流れます。これより下流、河口までは次回の記事とします。

2016/10/16

【5−13】麻布狸穴町の支流(青山上水排水路?)

(※写真は2016年及び2005年撮影です)

 一の橋の北側に位置する麻布狸穴町は三方を丘に囲まれた窪地となっています。今回はこの窪地を流れていた水路の痕跡を追ってみます。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

今も残る水路跡

 飯倉片町の交差点から、外苑東通りを少し東に進むと、麻布郵便局の立派な建物が見えてきます。その手前の外務省外交史料館向かい、外苑東通りから南側の麻布台3丁目に入る道を覗くと、下り坂になっています。今回辿る水路はこの付近から始まっていました。
(2016年再撮影)

 江戸時代後期の古地図を見ると、現在の外苑東通りに対して直角に南向きの水路が現れ、少し進んで東に曲がっています。明治時代の地図でも全く同じ位置に水路が描かれています。上の地図にそのルートをプロットしてあります。
 坂の下の窪地は東に向かっています。写真の道路から直接は入れませんが、狸穴町側から回り込むと、古地図のルートそのままに、荒れた細長い空地が残っています。
(2016年再撮影)

 細長い空地の下には今でも下水道が通っています。空地の東側の出口には、未舗装の地面からマンホールが突き出しています。
(2016年再撮影)

そしてその先は階段となり、一気に麻布狸穴町への谷底へと落ちていきます。
(2016年再撮影)

青山上水

 かつて、現外苑東通りには「青山上水」が流れていました。青山上水は1660年(万治3年)、玉川上水より分水された上水路です。玉川上水の開渠部終点である四谷大木戸から、台地の尾根上を南東へと進み、赤坂、飯倉、狸穴町で水路を分けつつ芝の増上寺付近まで流れていました。標高段彩図にプロットしてみると、玉川上水やそこからの他の分水と同様、高いところを縫うようなルートをとっていたのがよくわかります。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

 上水は1722年(亨保7年)、三田上水などと同時に廃止されていますが、その後も非公式に水が流れ続け、生活用水や農業用水として使われていたといいます。ただ、大部分が埋樋だったこともあって地図上に姿を現すこともなく、廃止後の実態はいまだによくわかっていません。
 1881年(明治14年)には、青山上水のルートの大部分をそのまま引き継いで、麻布区により麻布水道が敷設されます。ただ、漏水などにより維持困難になって、1885年には東京府の水道に編入され短命に終わりました。

狸穴町支流と青山上水の関係

 谷底から階段を見上げたところです。2つに分かれた階段の高低差は10mに及びます。かつての水路は滝のように落ちていたのでしょうか。また、写真からはわかりづらいかと思いますが、奥の階段より左側の方が低くなっており、水路がやや高いところを人工的に通されていたこともわかります。(冒頭の段彩図参照)
 青山上水の分水のひとつは、狸穴坂を下り、芝北新門前町に至っていたといいます。坂を降った後の流路は、狸穴町支流のルートと極めて接近しています。
一方、狸穴町支流のスタート地点は、現外苑東通りからと、あたかも青山上水から分かれているかのようにとれるようなかたちとなっており、またこのように不自然なルートを通って谷底に落とされています。このことから考えれるのは、

  1. 青山上水の余水や、高台の排水を落とした水路の可能性
  2. 上水の廃止後、非公式利用されていた時代に、農業用水としてこの水路に水が引かれていた可能性
  3. もともと狸穴坂沿いではなく、こちらを経由して流れていた可能性

です。いずれにせよ、狸穴町支流を流れる水は、青山上水と少なからず関係があったように思えます。
(2016年再撮影)

続く水路跡

 かつての水路跡は、駐車場と民家の境目となり、その先はマンション敷地の外縁となって続いているようですが、立ち入ることはできません。
(2016年再撮影)

 南東側に回りこんでみると、建物とブロック塀に挟まれた細長い空地が見つかります。
(2016年再撮影)

 未舗装の路面には、かなり古そうな鉄のマンホールがありました。建物も塀もマンホールの縁の上にはみ出しており、水路跡はもともとはもう少し幅があったと思われます。
(2016年再撮影)

 空地の出口です。ここが水路だったと知らなければ、不思議な空間にしか思えないでしょう。かつて流路は奥からここにでて、左(南)へと曲がり流れていました。
(2016年再撮影)

生き残った「狸穴町」

 麻布狸穴町は、狸穴坂と鼠坂に挟まれた谷底の町です。流路はその真中を通る写真の道に沿って、手前から奥(南)へと流れていました。狸穴の地名はニホンアナグマ(マミ、猯)の住む穴があったことに由来し、やがて猯と狸が混同されて狸穴になったの説が有力です。地形からは、アナグマが穴を掘りやすい崖や斜面があったことが容易に想像されます。
 1962年の住居表示法の施行以降、港区内の多くの町名が失われ、味気のない地名に統合されていきます。たとえば「六本木」には実に20以上もの町が統合されています。そんな中で狸穴町も、まず狸穴坂の東側にあるロシア大使館エリアが麻布台に統合されてしまいます。残ったエリアも麻布台3丁目になる予定でしたが、住民の根強い反対により、何とかその地名が存続されることとなりました。港区内で旧町名が残ったのは狸穴町、そして隣接する麻布永坂町のふたつだけでした。
(2016年再撮影)

 さて、水路が失くなったのはいったいいつ頃だったのでしょう。路面のマンホールを見てみると、蓋こそ新しいものの、蓋に刻まれている敷設年度は1933年と、昭和初期に下水が設けられたことがわかります。少なくともこれ以前に水路は暗渠化・下水化されたのでしょう。
(2016年再撮影)

鼠坂下の失われた湧水と狸穴公園

 水路跡の道にはやがて西側から鼠坂(下写真)を下ってきた道が合わさります。かつての水路跡はここでいったん住宅地の一角の中に姿を消します。
 東京都の1989年の調査では、鼠坂下にあたる狸穴町28番地の民家に湧水があり、庭の池に利用されているとのことでした。現在28番地という地番自体がなくなっていて正確な場所はわからないのですが、おそらくそうであったであろう一角は、駐車場や民家の庭先になっているものの、池はなさそうでした。港区の最近の調査でも確認できずとされており、幻の湧水となってしまいました。
(2005年撮影)

 水路跡は狸穴公園の東側から、再び道路として辿ることができます。写真は狸穴公園で、奥に見えるのが、鼠坂へと続く道、その右側の木の茂る一角が、かつて湧水があったと思われる場所です。
(2005年撮影)

 公園の西側の斜面には狸穴稲荷の祠があります。狸と狐、そして鼠と、なかなか賑やかな一角です。
(2016年再撮影)

下流部の流路

 狸穴公園の南側の道路です。わずかに窪んでいるのがわかります。左手前が狸穴坂からの道、そして水路は右手から左奥の道沿いに流れていました。
(2016年再撮影)

 古地図を見ると、江戸時代にはすでに幅の広い道路で、道の両側に水路が通っていたようです。位置関係でいえば、右側が狸穴町の流れ、左側が青山上水の分水の流れとなりますが、実際にはどうだったのでしょう。
(2016年再撮影)

 道はやがて一の橋JCT付近へとたどり着きます。高速道路の下に、古川が流れています。青山上水は少し手前で東(左)へ、狸穴町の流れは手前を左から右へと、まっすぐ古川に注いでいたようです。右に写るニッシンスーパーは二棟に分かれているのですが、その間がかつての水路だったようです。


 次回以降は渋谷川が笄川の流れを合わせて古川へとその名を変える天現寺橋へと戻り、古川本流を下っていきます。



2016/10/06

【5−12】芋洗坂〜麻布十番の流れ(吉野川)と柳の井戸

(※写真は2005年、2016年の撮影です)

 六本木通りと外苑東通りの交差する六本木交差点の南側は、大きく窪んでおり、その真ん中を「芋洗坂」が下っています。今回はその芋洗坂に沿って流れていた「吉野川」を辿ってみます。吉野川は、ここ数回にわたって取り上げてきた藪下の流れ麻布宮村町の流れがま池からの流れを合わせて麻布十番を下り古川に合流していました。
 (地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

芋洗坂

 六本木交差点から坂を下る地点に、「芋洗坂」の説明板がたっています。その由来には諸説あるといいますが、毎年秋に稲荷社の前の市で芋が売られていたため、坂沿いの川でその芋を洗っていたため、芋問屋があったためといった、芋にまつわる説と、疱瘡(天然痘)の治癒を神仏に祈願し顔を洗う「いもあらい」に関するという説に二分できます。
(2016年再撮影)

新旧の芋洗坂

 芋洗坂が現在のように六本木交差点まで繋がったのは大正期で、それまでは、飯倉の方から西進し、直角に南に曲がってから下っていくルートが芋洗坂だったようです。明治末や大正期の地形図でも、そちら側に「芋洗坂」と記されているのが確認できます。下の写真で手前左から右に通る道が現在の芋洗坂、右奥からカーブを描いて下ってきているのがかつての芋洗坂(の上部)です。なお、写真枠外左側からは饂飩坂が合流しているのですが、こちらが本来の芋洗坂だったとする説もあり、なかなかややこしくなっています。
 (2016年再撮影)

吉野川と朝日神社

 さて、芋洗い説、「いもあらい」説いずれも、坂に沿った川と関連付けられた由来となっています。港区史をみると、ここに「吉野川」と呼ばれた小川が流れていたことがわずかに記されています。ただ、明治期以降の古地図や地籍図を見てみても、坂沿いの水路はどこにも記されていません。道沿いのドブ程度の水路だったのでしょうか。
 坂の途中には「朝日神社」が鎮座しています。伝承では940年の草創、もともと弁財天だったといいますから、やはり水の湧く場所だったと思われます。16世紀には祭神が稲荷に替わり「日ヶ窪稲荷」に、そして18世紀後半には「朝日稲荷」となりました。現在のように「朝日神社」となったのは1895年(明治28年)のことです。
 (2016年再撮影)

かつての流路

 伝承では吉野川は朝日神社やその裏手の法典寺付近から湧き出した湧水を集め、道路の右側を流れていたといいます。現在ではまったくその姿を偲ぶことすらできませんが、坂道のルート自体はかつてと変っていませんので、ちょうど歩道のあたりが水路だったということになるでしょうか。
 (2016年再撮影)

合流地点と「日ヶ窪」

 坂を下りきると、正面にゲートタワービルが見えます。吉野川はその付近で藪下からの流れを合わせていました。坂に沿う谷沿い一体はかつて「北日ヶ窪町」そして南側に続く一体は「南日ヶ窪町」という地名でした(日下窪とも)。南向きのため日光をよく受け温かい土地であったことから「日南窪」と呼ばれており、これが「日ヶ窪」に転じたとの説が有力です。確かに、深い谷ですが南に大きく開けており、日当たりは良好です。
 (2016年再撮影)

鳥居坂町の丘

 日ヶ窪の谷の東側は鳥居坂町の丘となっています。谷底は標高12〜13mなのに対し、丘の上は28〜30mとかなりの標高差となっています。丘の上にはかつては広大な邸宅が並んでおり、その名残である国際文化会館の緑が擁壁の上にせり出しています。
 (2016年再撮影)

麻布十番の暗渠

 さて、此処から先は前回記事の最後に紹介した、暗渠らしい暗渠へと入っていきます。芋洗坂からの流れに、薮下の流れがま池宮村町からの流れを合わせた吉野川は、麻布十番を東に流れていきました。その水路敷は現在も麻布十番通りの裏側に残っています。ゴミが放置されていたりしてやや荒れた感じもありますが、まぎれもなく川の跡です。古川(渋谷川)の下流域の別名として赤羽川という呼び名がありますが、資料によってはこの麻布十番の流れを赤羽川と呼んでいます。
 (2005年撮影)

麻布十番と新堀川・古川

 この付近の流路の両岸はかつては「宮下町」という町名でしたが、1962年に周囲の町と統合して「麻布十番」となりました。その地名自体は江戸時代より俗称として使われていたものです。
 現麻布十番一体は、江戸時代初期までは低湿地だといいます。1675年、古川が船が入るように改修され、麻布十番には船留めが設けられます。これ以降、麻布十番の地は町として発展していくのですが、その改修の際、将監橋から一の橋までを十の工区に分け、その十番目の工区だったことから麻布十番の名がついたといわれています。なお、この改修により、一の橋より下流の渋谷川が「新堀川」、対してそれより上流が「古川」と呼ばれるようになったともいわれています。
 (2005年撮影)

流路跡の暗渠は途中でなくなってしまいますが、旧宮下町と旧新網町の境目からはクランク状( ̄|_型)に曲がって、以東は十番商店街の南側に沿っていわゆるドブ板状となって流れていました。写真の歩道右側にあたります。川は、昭和の初期には暗渠化され、現在は下水道麻布幹線となっています。
 (2005年撮影)

網代橋

 商店街から少し離れた麻布十番稲荷の敷地内の片隅には、かつて麻布十番商店街の流路に架かっていた「網代橋」の親柱が特に説明もなく放置されています。親柱には明治35年と刻まれています。(※2016年現在は説明板が設置されている)。網代町は麻布十番通りの南側の町名です。十番稲荷境内にはがま池からの流れの項で紹介したガマガエルの伝承にちなむカエルの石像もあります。
 (2005年撮影)

かまぼこ型の合流口

 水路は一の橋のたもとで古川に合流していました。その北側には、江戸時代に設けられた船留めが、麻布十番商店街の方に向かって掘り込まれていました。明治にはこの堀留は埋められましたが、吉野川の暗渠の方は現在でもその口を古川の護岸に開いています。その断面はかまぼこ型をしており、昭和初期の暗渠化時の姿をとどめています。このあたりは感潮域で、満ち潮の時には暗渠内まで水が入り込んでいます。
(2005年撮影)

一の橋公園の湧水

 一の橋の袂、一の橋ジャンクションの直下には「一の橋公園」が設けられています。この場所には、戦前までは銭湯「一の橋湯」と活動写真館「福宝館」がありました。一の橋湯の前には水が吹き上げる井戸があって名水として知られ、銭湯にもこの水を使っていたといます。現在公園には付近の地下ケーブル敷設時に湧出した水を利用した噴水が設けられています。かつての湧水と出方は違いますが、同じ水脈のものなのかもしれません。
(2005年撮影)

 噴水のひとつは古川の護岸上から水上に向かって、定時刻に噴出されるもの。噴水の下の護岸の水抜き穴からは、こちらは地下から自然にしみだしたとおぼしき湧水がじょろじょろと流れおちています。
(2005年撮影)

 もう一つは公園の地面から直接吹き出す噴水。1991年のテレビドラマ「東京ラブストーリー」のオープニングのラストシーンで、この噴水とその奥に見えるトンネル状の門が使われています。
 なお、2010年3月より、古川の川筋の地下に、洪水用の遊水地を建設する大規模な工事が始まり、一の橋公園は工事現場となり、立ち入ることができなくなっています(2016年完了予定)。
 (2005年撮影)

柳の井戸

 つづいて、麻布十番商店街の南方にある「柳の井戸」を紹介しましょう。麻布山の東側山腹に位置する麻布山善福寺は、空海によって824年に開かれたと伝えられる、都内でもかなり古い寺院のひとつです。もともとは真言宗の寺院でしたが鎌倉時代以降は浄土真宗となっています。境内の墓地の一角には戦災による被災にも枯れることなく樹齢700年と都内最古を誇る銀杏の木「逆さ銀杏」があります。
 古くから名水として知られた「柳の井戸」は山門手前の参道沿いの柳の木の下にあります。(※2016年現在、井戸背後の柳は無くなっています)
 (2005年撮影)

井戸は弘法大師が地面を錫杖で突いたところ湧き出したとの伝承が残っており、今でも石で覆われた井戸から水が自噴しています。井戸全体は、石碑の建つ左側(この下に何があるのかは不明)、水の湧き出し口と水槽のある中央部、洗い場のようなスペースとそこからの水路が設けられた右側の、3つの構造に分かれています。
 (2016年再撮影)

 井戸の湧き出し口です。絶え間なくちょろちょろと、澄んだ水が自然に流れ出しています。2011年の調査では、その量は1分あたり11〜17リットル。現在の水量からはあまり想像出来ませんが、関東大震災や東京大空襲の際には貴重な水源として近隣の住民の困窮を救ったそうです。
 (2016年再撮影)

 柳の井戸から溢れでた水は、善福寺の参道の側溝を伝って流れていきます。かつてその先は、網代町内を流れていた水路へと繋がり、吉野川に合流していました。今では区画整理によりその水路の痕跡は全く失くなり、湧水は残念ながら下水へと落ちているようです。
(2016年再撮影)

次回は、一の橋の北側で古川に合流していた、麻布狸穴町の流れを追ってみます。