2015/12/23

【2-9】宇田川(3)神山町の支流と宇田川下流部

(写真は特記無き限り2005年撮影のものです)

 今回は宇田川の下流部を辿りますが、その前に神山町と富ヶ谷1丁目を流れていた支流に立ち寄ってみます。まずは今回の範囲の地図を。

(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

神山町の支流

 神山町の支流は現山手通りの東側にある幅30mほどの谷底を、南縁の崖下に沿って流れていました。流路は旧代々幡町と旧渋谷町の境界線でもあり、暗渠となった今も神山町と富ヶ谷1丁目の境界線となっていて、500m足らずですがはっきりとした流路跡が残っています。
 山手通り沿い、NTT代々木ビルの裏手が谷頭地形となっていて谷底に下る階段があり、その途中から暗渠がはじまっています。崖の土手には緑が残っており、今川が流れていてもおかしくない雰囲気です。


飛び出すマンホール

マンホールが飛び出ているのはなぜなのでしょうか。


草むす流路跡

 谷底に降りると、渋谷川の水系には珍しく、道路となることもなく雑草が生い茂る空き地となった暗渠が見られます。暗渠化は1950年代末といいますから、50年間も空き地のまま放置されていたことになります。
 戦前の地図をみると、この付近には「花の湯」という銭湯があったようです。


 空き地暗渠は宇田川に合流する手前まで続いています。下流部は、かつては他の谷戸を流れていた川と同じく、谷底の両端に2本の水路が流れていたようです。北側の水路跡は現在は道路となっています。
 神山町38で空き地暗渠は終り、そこから先50mほどは普通の道路となって宇田川遊歩道に合流しています。


宇田川本流に戻る

 再び宇田川本流を下っていきます。神山町から宇田川町に入る寸前の区間は、暗渠上の遊歩道のつくりがここまでとはちょっと異なっています。この区間が一番最初に遊歩道風に整備された区間のようです。


アスファルトの下に隠れるもの

 宇田川町に入ると暗渠は車道となります。道路の端をよく見ると、アスファルトの下にコンクリートの構造物が隠れています。かつての護岸の跡か、あるいは暗渠を覆う蓋の端でしょうか。ガードレールの下の頑丈そうなコンクリートも、護岸を彷彿させます。


「武蔵野」の風景の今

 建物が無骨な背を向ける、やや殺風景な中を宇田川の暗渠は下っていきます。国木田独歩の「武蔵野」では、渋谷川や目黒川、神田川といった武蔵野の小川に対して

「林をくぐり、野を横切り、隠れつ現われつして、しかも曲りくねって流るる趣は春夏秋冬に通じて吾らの心を惹くに足るものがある。」

と評しています。100年ちょっと前、この近辺もそのような風景だったのでしょう。この風景から想像することはできるでしょうか。


「東京の三十年」が描く宇田川

 暗渠は渋谷BEAMの前付近で、右手から松濤公園方面と神泉谷からの支流(次回記事にて辿ります)をあわせ、宇田川町交番を経て井の頭通りと合流し、西武デパートA館とB館の間に至ります。
 昭和初期までの宇田川はこの付近から南東にそれ、現在の東急本店通り沿いを流れていました。そして、渋谷BEAM前には堰があり、明治後期まで大きな水車が回っていました。
 田山花袋「東京の三十年」には、先の国木田独歩宅への訪問記「丘の上の家」が収録されており、明治後期の、水車付近の風景が描写されています。

「渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲っていて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れているのが見え、その此方の下流には、水車がかかっていて頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私達は水車の傍の土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いた」


大岡昇平の描く宇田川

 文中で記されている「土橋」はおそらく水車の上流の「松濤橋」か、下流側の「大向橋」でしょう。「大向橋」の傍には大正中期には、少年時代の大岡昇平の家がありました。彼の回想記「幼年」とその続編「少年」には、大正中期の渋谷の風景が、特に渋谷川の水系を中心に地図も交えて詳細に描写されています。以下は彼の家の側にあった井戸の描写です。

「宇田川町のこの一帯は、水が豊富なことで特徴づけられる。おそらく道玄坂方面の台地の地下水脈があったのだろう、深さ二メートルくらいの浅い井戸から、水が絶えず湧き出て、低い井戸側を一杯にし、溢れ出ていた。夏は冷たく冬はあたたかいのが珍しかったが、少し鉱気を含んでいたから、台所で使う水は、水瓶に棕櫚の切れ端を沈めて異物を付着させ、上の澄んだところを汲んでいた。」

 田山花袋の描く田園の風景、大岡昇平の記す自噴の井戸がかつてここにあったことをどうすれば想像できるでしょうか。
(地図出典:大岡昇平「少年−ある自伝の試み」1975 筑摩書房)

西武デパートA館とB館の間

 現・東急本店通り沿いを流れていた宇田川下流部は、大正期には周辺の市街地化に伴い、「川上家屋」が設けられたりしていました(上の「少年」の地図でも大盛堂書店が川上に記されています)。昭和に入るとこの区間は暗渠化され、更に水害防止の為、バイパスともいうべき水路が新たにつくられます。この水路は大向橋から分かれるもので、当初から暗渠として開削されました。
 西武デパートA館とB館の間を通る井の頭通り。この下がその宇田川の暗渠です。この暗渠があるため、西武デパートA館とB館の地下はつながっていません(※)。


※2015年追記 実は繋がっていた西武A館とB館の地下

 「革洋同」さんの調査により、実は西武A館とB館の地下はつながっていたことが判明しました。売場となっている地下1階と地下2階は確かに宇田川の暗渠があるため繋がっていないのですが、その下の業務用フロアである地下3階には、暗渠の下を通る業務用地下道が存在していました。
下の図版は建設当時の業界紙に掲載されていたものです。

(図版出典:「SKビル(西武渋谷店)の施工」陰山茂 (「建築界」1968年7月号))


詳しくは、「革洋同」さんのサイト記事をぜひ御覧ください。上の図版も「革洋同」さんにいただいたものです。この場を借りてお礼申し上げます。

「西武渋谷店A館B館の間の地下道はあります!(おぼかたさん風に)その1」
「骨まで大洋ファン 革命的横浜大洋主義者同盟」内記事)

山手線を潜る

 宇田川は山手線の土手をトンネルで潜った先で渋谷川と合流し、終りとなります。合流地点付は明治初期までは八反田と呼ばれる湿地・沼だったそうです。そして宇田川と合流した渋谷川は、この先JR渋谷駅を越えたところから開渠となって地上に姿を現します。


 この後次回の記事で、神泉・松濤の支流を紹介してから、渋谷川中流部を辿っていきます。

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