2015/12/20

【2-8】宇田川(2)上原支流と宇田川中流部

(※写真は特記ない限り、2005年撮影のものです。)

 前回に引き続き、上原の支流を辿ったのち、宇田川本流を下っていきます。まずは今回辿る範囲の地図を。

(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

上原支流

 上原の谷は、狼谷の谷と同じくらい大きい谷戸となっています。谷頭は小田急線東北沢駅を挟んで南北の二つに分かれており、かつて、それぞれの谷から流れだした二つの流れが谷底を平行して流れ、現在の小田急線の北側で宇田川に合流していました。しかし、現在ではそれらの痕跡はまったくといっていいほど残っていません。
 南側の谷頭だけは、2000年頃までは空き地となっていて、木々が茂る谷の斜面が残っており、かつて水が湧き出していた頃を想像できるような風景や、水路の跡のようなスペースが残っていました。しかし今ではそこにもマンションが建ち、知らなければかつてそこが川の源だったとはわからないでしょう。
 写真は上原中学校前の道路です。かつてはこの道にそって、崖の下を川が流れていたようです。



底ぬけ沼

 大正時代末には、上原の谷を横切って井の頭通りが建設されました。地下に水道管を通した水道道路であったため、谷と交差する部分は盛り土となり、その結果、通りの南側の谷底にあたる湿地帯には水が溜まり沼となりました。この沼は「底抜け沼」と呼ばれ、大雨の後には、井の頭通り下に設けられた排水路から宇田川に向かって、かなりの水量が流れていたとか。昭和16年(1941年)に「底抜け沼」は埋め立てられ、跡地には住宅が建てられました。沼には特に湧水はなかったため、工事は順調だったとのことです。写真は井の頭通りから底抜け沼があった場所を望んだものです。階段で降りる道がかつての谷の北側の流れの跡、そして道の左側に底抜け沼がありました。


地図に記された底抜け沼

 1940年に発行された代々木大山町の町内地図には、この底抜け沼が記されており、かなり大きかったことがわかります。この地図には大山園や、宇田川源流の池も表記されていて、貴重な資料です。

(地図出典:代々木大山町全図(1940))

暗渠迷路

 前回記事最後に紹介した、上原支流が宇田川に合流する地点から、再び宇田川を下っていきます。この近辺の流路は河骨川などと同じく東京オリンピック後に暗渠化されたようです。細く曲がりくねった暗渠が路地裏を縫っています。暗渠の南北に通る路地も同じように曲がりくねっていますが、それらは宅地化に伴い本流に先立って無くなっていった、かつての宇田川の分流の跡です。宇田川沿いに限らず、かつて谷戸を流れる小川は水田に水を引き入れたり水を抜いたりするため、2〜3本の水路に分けられていました。
 暗渠となっているメインの流路は写真の場所でいったん代々木上原方面からの地蔵通り沿いに出たのち、少し進んでから北に曲がり、西原の谷からの支流に合流します。


西原支流

 西原と元代々木町の境目にも北から南に向かう細い谷があって、かつては田圃の中に小川が流れていました。その一部は、元代々木町13から南下する暗渠として残っています。暗渠は元代々木町12で東に向きを変え、11番地で南から流れてくる宇田川本流に合流します。


二宮尊徳像

 宇田川の暗渠沿いに唐突に現れる二宮尊徳像。あとでたまたま目を通した資料にこの像のことが載っていました。敷地の住人の先代が借金のカタに預ったものだそうです。


蛇行する暗渠

 暗渠は静かな住宅地の裏手を縫うように、曲がりながら東へと続いていきます。


数々の小橋

 小さな川ですが、そこには数多くの橋が架かっており、それぞれ丁寧に名前がつけられていました。区が刊行していた地図にそれらの名が残されています。

(地図出典:渋谷区地図(渋谷区役所刊行、刊行年不詳))

小田急線

 川跡は代々木八幡駅の北西で小田急の線路にぶつかります。ここで小田急線の南側に渡り、少し東側の踏切のところで小田急線を越えてきた初台支流と合流していました。(明治期までは現富ヶ谷小学校の敷地を横切り、富ヶ谷支流と合流してから初台支流・河骨川と合流していました。)


宇田川遊歩道

 川は代々木八幡駅前の道路の南側を流れた後、道路の北側に移ります。ここから宇田川遊歩道が始まります。以前は植え込みや遊具がありましたが、最近(※2000年代初頭)きれいに整備されてしまいました。遊歩道が始まってすぐに河骨川が合流します(「河骨川(2)下流部の暗渠」参照)。


宇田川本流

 川をイメージしたのか、歩道が蛇行しています。


植込みのある暗渠

 一箇所だけ、以前の状態の遊歩道が残っていました。1896年(明治29年)から97年にかけ、この場所からほんの数百メートル東、現在のNHK放送センターから渋谷公会堂に抜ける道沿いに国木田独歩が居を構えていました。この家での暮らしや周囲の風景をもとに「武蔵野」が書かれました。
 独歩が去った後、1909年(明治42年)には陸軍代々木練兵場ができ、戦後米軍に接取されてワシントンハイツ~返還後東京オリンピックの宿舎となったのち1967年に代々木公園となりました。
 また、ここのすぐそば、NHK放送センターの辺りは窪地となっていて池があったようです。現在、井の頭通りがわずかな区間二手にわかれ、間に島状の緑地がある一角がありますが、カーブしている方が旧道で、池を避けるために曲がっていた様です。

※2015年追記:現在ではこの植え込みは失くなり、他の場所と同様小奇麗な遊歩道として整備されています。


 この近辺、神山町2番地では、神山町と富ヶ谷1丁目の間の谷からの支流が合流していました。次回はそちらを辿った後、宇田川下流部を渋谷川合流地点まで追っていきます。


3 件のコメント:

  1. 突然のコメント失礼します。宇田川の暗渠について調べており、こちらのページを見つけた地元の者です。本ページの「数々の小橋」に掲載している、「渋谷区地図(渋谷区役所刊行、刊行年不詳)」に、不正確な箇所がありましたので、どうしても気になりコメントさせていただきます。
    画像の地図では、代々木上原駅が上原1丁目32の左にありますが、代々木上原駅がこの場所に移ったのは1978年の千代田線の乗り入れ時で、その時に宇田川は既に暗渠化しておりました。
    この地図のように、暗渠化前の小橋がいくつもある時代は、地図の「二原橋」と郵便局マーク(〶)を結ぶ道が小田急線と交差する箇所が駅でした。
    もしかすると、この地図はもともと防災マップなど、渋谷区が刊行しているが全体像を把握するのが目的で、細部の厳密さを求められない地図なのかな、と考えた次第です。以上、コメント失礼しました。

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    1. コメントありがとうございます。渋谷に限らず区役所等の地図は、地図の主題と関係のない部分では案外古い情報が更新されずにそのまま使われていたりします。この地図もその類かと思います。

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  2. 「上原支流の南側の谷頭」は東北沢の塾に通う道にあり、なぜあのような広大な空き地があるのか謎でしたが、こちらのページを読んで納得しました。「底なし沼」に叔父が子どものころにはまった話を思い出したり、西原と元代々木の間にも支流があり、支流が2本あったことが発見でした。ありがとうございました。

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