2015/12/14

【2-6】宇田川富ヶ谷支流

(※写真はすべて2005年撮影です)

富ヶ谷

 富ヶ谷は井の頭通りと山手通りが交わる富ヶ谷交差点近辺から西南方向に刻まれている谷です。もともとは「留貝谷(とめがいや)」と呼ばれており、谷沿いの地下に大量の貝殻が堆積している地層があったためとされています。
 谷はふた手に分かれていて、ひとつは富ヶ谷2丁目内の上原2丁目との境界近くを、もうひとつは上原二丁目の真ん中を通っています。富ヶ谷2丁目の流れの方は、三田用水から水を引いていた時期もあったとの伝承があります(ただし三田用水の公式記録には見あたりません)。上原2丁目の流れは、上原2-15にあった久米邸(明治時代半ばまでは紀州徳川家公爵屋敷)の池を水源にしていたとも言います。ただし、こちらの池は谷筋からは少しずれています。
 ふたつの谷は富ヶ谷2−41であわさります。現在暗渠として辿れるのはこの付近からで、明治時代後期の地図でも確認できる、2本の並行した流れが暗渠・川跡となって残っています。ここより上流は何れの谷もはっきりした川の痕跡は見つけられません。久米邸の池や、二つの谷が合わさる手前の上原2-7付近に大正末期頃まであったため池も、埋め立てられてしまいまったくその面影は残っていません。


北側の流れの暗渠

 北側流れの暗渠は、現在でも「水路敷」扱いとなっています。かなり細い路地となっていて、道の真中に電信柱があったりもします。かつて川沿いは鬱蒼とした木々の斜面に挟まれて、細長い水田がのびていました。


石碑

 北側の暗渠沿いを進んでいくと、謎の石碑がありました。「いなり道」と書いてある様ですが、もともとここにあったのでしょうか。


南側の流れの暗渠

 一方、南側の、かつて三田用水とつながっていたともされる川跡がこの道です。こちらはかなり太い道となっていますが、実際の川幅は細かったのではないでしょうか。南側には擁壁が迫ります。下っていくといきなり行き止まりになります。


南側の暗渠のつづき

 反対側にまわりこむと延長線上に再び細い暗渠が現れます。このあたりから、谷幅は広くなります。この先しばらく進んだところで、北側の暗渠と合流します。


暗渠は少し太くなって、谷間を流れていきます。人通りも少なく、静かな暗渠です。


暗渠に降りる階段

 暫く進むと井の頭通りにぶつかります。通りからかなり低くなっていて、段差には階段がかけられています。


△地帯

 井の頭通りの北側(富ヶ谷交差点北西角)に回りこむと、暗渠が続いています。北東に進むとすぐに、今度は山手通りにぶつかります。暗渠は二つの大通りとあわせて、奇妙な三角地帯をつくっています。


春の小川トンネル

 富ヶ谷支流はこの山手通りをくぐるトンネル近辺を通って通りの東側に抜けていました。かつてはガードの山手通り西側近辺で、代々木上原方面からの宇田川本流と合流していましたが、昭和に入る頃には本流の流路は代々木八幡駅前で初台川と合流する形に付け替えられていました。ガードには春の小川のペインティングが施されています。



宇田川へ

 山手通りの東側には、川跡の道路が東南東に続いています。川の北側はかつて水田でした。道はやがて井の頭通りにぶつかります。この先で宇田川と合流していたようですが、合流地点は現在井の頭通りの下となり、特定できません。


 富ヶ谷の流れは、上流部の大半が久米邸の敷地の森のなかを流れていたためもあってか、流れていた頃の様子を知るてがかりとなる文献などがあまり残っていません。しかし、その暗渠は、短いけれどもいかにも暗渠らしい雰囲気を漂わせているように思います。山手通りや井の頭通りの拡幅・改修工事でこれらの痕跡がなくならないことを祈ります。

 次回からはいよいよ、宇田川本流を水源からたどってみます。

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