2015/12/27

【2-10】宇田川松濤支流・三田用水神山口分水と神泉谷支流

(写真は特記ないかぎり2005年撮影のものです)

 宇田川本流の現在の渋谷BEAMの手前の付近では、かつて南西側にY字型に延びる谷戸からの支流が合流していました。この流れは現鍋島松濤公園の湧水池と、神泉谷からの湧水を源としており、江戸時代後期からは、三田用水の神山口分水が接続され、灌漑や水車の動力に利用されていました。これらの痕跡を下流側から辿っていきます。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

暗渠の遊歩道 

 現在、流れの最下流部は東急百貨店本店の敷地となって消滅しており、暗渠を辿れるのはその西側からとなります。暗渠の上は遊歩道となっています。流域はかつて大向田圃と呼ばれる水田となっていましたが、大正後期に埋め立てられて造成され、川も直線化されました。
 大岡昇平の「少年」には以下のように描写されています。

「大向小学校(※)の裏は、今の鍋島公園と神泉の湧泉から流れ出る水の合わさった野川が流れている。川筋が直線に学校の敷地に沿っているのは、学校の敷地を埋め立てた時、修正したからだろう。松濤の台地を切り崩して埋立てたらしく、流れの北側は切り立った崖になっていた。」

※大向小学校は東急百貨店本店の場所にありました。

 遊歩道の終了地点の近辺が神泉谷方面からと松濤公園からの流れの合流地点でした。そこから右(北東)に向かうとすぐに鍋島松濤公園があります。

鍋島松濤公園

 松濤の一帯は江戸時代紀州徳川家の屋敷地で、明治時代には鍋島侯爵家が買い受け、茶園「松濤園」となりました。明治後期になり茶が売れなくなると、一帯は「鍋島農園」として果樹や小麦の畑に、そして大正後期には造成により宅地として分譲されていきます。その際、池の周囲は「鍋島松濤公園」として整備、東京府への寄付により開放されました。
 池は三方を囲まれた窪地(谷頭)の湧水池となっていて、江戸期より灌漑用の池として存在していたといい、東京都の調査によれば現在もわずかながら湧水があるようです(※)。

※2015年追記:2014年暮れから2015年2月にかけて、松濤公園の池の水が「かいぼり」でいったん抜かれました。終了後再度水を満たしていく過程で、現在も池では1時間1000リットル程度の湧水があることが確認されました。水は池の北岸を中心に、数カ所で湧き出していました。

三田用水神山口分水

 池の北西側からはかつて三田用水神山口分水が流入していました。三田用水は世田谷区北沢5-34で玉川上水から分水し、目黒区と渋谷区の境界沿いに台地の尾根筋を南東に進み代官山~目黒を経て白金・芝方面に達する用水で、もともとは飲料用の上水、その後は農業用水、そして明治以降は工業用水として1975年まで利用されていました。渋谷川水系にはいくつか分水がひかれ、神山口分水もそのひとつでした。
 これらの分水には、明治時代には精米・製粉や動力用の水車が数多く設けられました。神山口分水も、短いながら2ヶ所に水車がありました。ひとつは分水してすぐの松濤2-4近辺にあった永井水車、もうひとつは松濤公園の南東、渋谷消防署松濤派出所の裏手にあった有馬水車です。
 有馬水車は、動力を得るための落差を作るため、分水が松濤公園の池に流入する手前で東側の台地斜面に流路を分け、松濤派出所付近で滝状に落下させて水車を回していました。
 神山口分水は、明治期、松濤園の茶を育てるために分水の水量を増やしており、この二つの水車、そして前回記事に記した宇田川本流の大向橋付近に設けられていた伊勢万水車を安定稼働させることが可能となっていたようです。ただ、これらの水車は周囲の都市化や水害による破損に伴い、明治末期には稼働を停止していたようです。
 大岡昇平の「少年」には有馬水車の跡の滝についての描写があります。

「一年前に私の家がこの辺に引越して来た頃には遠く鍋島公園の手前で小さな滝になって落ちているのが見えた。ここが蛍の名所で、一度母に連れられて行ったことがある。蛍は滝の下の草叢に光っていた」

(地図出典:大岡昇平「少年−ある自伝の試み」1975)

2015年追記:松濤公園内の神山口分水の痕跡?

 水車の廃止、そして大正期の宅地開発に伴い、神山口分水や下流の川の流路は一本に整理されます。松濤公園付近では、池には水を落とさず、公園の北東側の道路に沿って水路が付け替えられました。

「滝がなくなってからも、水車跡と公園の間を下る坂に沿った溝を水があわただしくすべり落ちていた」(大岡昇平「少年」より)

 公園の北側の角をショートカットし道路沿いを流れる流路は、昭和初期の地籍図でも確認できます。さて、このショートカットの付近には現在公園内の遊歩道が通っているのですが、ちょうど流路に重なる部分の路上には等幅の僅かな盛り上がりが、コンクリート舗装に亀裂を作っていました(下右写真)。裏付けはとれていないのですが、これはもしかすると埋められた神山口分水の痕跡ではないかと思うのですが、真相や如何。
(地図出典:内山模型製図社「東京市渋谷区地籍図」1935)

2015年追記:三田用水の神山口分水取水口跡?

 山手通り沿い、東大駒場キャンパスの塀に沿って、現在でも三田用水の遺構が残っています。この区間は昭和初期、給水を受けていた日本麦酒(ヱビスビール)の手によって暗渠化されていますが、水路の高さを保つためか、路面より高い箱状の暗渠となっています。ここに、神山口分水の取水口と思しき遺構が残っています。写真中央、暗渠上に取手がある付近にご注目下さい。(写真は2009年撮影。)
(※2009年撮影)

 近づいてみると、暗渠の側面に柵付きの小さな穴が開いています。そして、下流側(左側)の暗渠上面には取っ手付きの点検口が設けられています。この蓋の下には堰が設けられているそうです。どうやらこの堰で水位を保ち、穴から神山口分水に水を分けていたようです。
(※2009年撮影)

神泉谷支流

 さて、松濤公園付近に戻ります。冒頭の遊歩道の終了地点付近では、かつて神泉谷からの流路が合流していました。現在では流路跡の道が井の頭線神泉駅方向に続いています。谷筋は細く、北側には谷戸の崖が迫っています。
 神泉谷は、江戸時代初期までは「隠亡谷(おんぼだに)」と呼ばれていたといいます。「隠亡(おんぼう)」は墓所の番人や寺社の清掃、火葬・埋葬に従事者するもの指す言葉です。隠亡の住む集落があったのでしょうか。火葬場だったとする説もありますが、江戸期までは火葬は一般的ではなかったこと、ちかくに幡ヶ谷の斎場もあったことから、違うのではないかと思います。

神泉駅の水路

 京王井の頭線の神泉駅は、神泉谷を横切る形でつくられており、駅の半分と渋谷側をトンネルに挟まれた珍しい形状をしています。流路跡が線路を横切るところには今でも蓋をされた細い水路があります。暗渠に直接つながっているわけではなさそうですが、隙間からは水が流れているのが見えます。
 線路の南側にも、この水路に続くかたちで怪しい未舗装の空間が道路端に残っています。更に延長し道路を挟んだ向かいのビルやマンションが建っている窪地が、かつて弘法湯のあった場所です。

弘法湯と神泉館

 神泉の地名は「空鉢仙人」(弘法大師との伝承も)に由来する霊泉からとられたといいます。江戸時代にはその水を利用した共同浴場「弘法湯」ができ、滝坂道(現淡島通り)を経由した淡島参り(下北沢・森厳寺の「淡島の灸」)の参拝客が帰りに立ち寄る場所として賑わったといいます。明治時代には浴場の2階が料亭となり、更には別館「神泉館」に発展。駒場練兵場などからも顧客を集めます。やがて料亭に出入りする芸者の置屋が出来、これらは円山町の花街のルーツとなりました。神泉館の庭には池があり、神泉支流の源流のひとつとなっていました。また、他にも湧水や井戸がいくつかあったそうです。
 「弘法湯」は1979年まで、井戸のひとつ「姫が井」の水を利用し銭湯として営業を続けましたが、現在は跡形もなくなっています。神泉館のあった付近にはマンションが建っており、周囲を囲まれた窪地の地形がかつての様子を忍ばせます。その入口には、明治19年に建てられた「神泉湯道」と刻まれた石碑が残されています。
 (※2014年撮影)

滝坂道

 神泉駅前の谷底の道を上がると滝坂道に出ます。滝坂道はいにしえの甲州街道で、現在途中まで淡島通りとなっています。滝坂道の名は調布の滝坂に抜ける道であることに由来しますが、雨が降ると坂道に水が滝の様に流れたためとの説もあるようです。

更に南に続く水路

 江戸期の地図には神泉町7番地近辺に池が描かれており、ここから神泉谷に向かって小川が描かれています。昭和初期の地籍図を見ると、滝坂道に沿って水路が流れ、神泉館の池からの流れに合流していたことがわかります。そしてその水路の上流部は、江戸期に池のあったという神泉町7番付近で滝坂道から分かれ更に南に延びています。この区間は途中からは台地上に上っており、周囲の雨水などを川に落とすために後から人工的に作られた水路と思われます。
(地図出典:内山模型製図社「東京市渋谷区地籍図」1935)

 山手通り近く、今でもその水路の痕跡は路地となって残っています。細い路地ですが、抜け道になっているのか、近隣の勤務者らしき人々が通り抜けていきます。その中で、かつてここが宇田川町まで続く水路だったということを知る人は誰もいないでしょう。
(※2014年撮影)

 以上で宇田川水系の探訪はおわりです。次回から渋谷川の中流とそこに流れ込む支流たちを辿っていくこととします。

2015/12/23

【2-9】宇田川(3)神山町の支流と宇田川下流部

(写真は特記無き限り2005年撮影のものです)

 今回は宇田川の下流部を辿りますが、その前に神山町と富ヶ谷1丁目を流れていた支流に立ち寄ってみます。まずは今回の範囲の地図を。

(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

神山町の支流

 神山町の支流は現山手通りの東側にある幅30mほどの谷底を、南縁の崖下に沿って流れていました。流路は旧代々幡町と旧渋谷町の境界線でもあり、暗渠となった今も神山町と富ヶ谷1丁目の境界線となっていて、500m足らずですがはっきりとした流路跡が残っています。
 山手通り沿い、NTT代々木ビルの裏手が谷頭地形となっていて谷底に下る階段があり、その途中から暗渠がはじまっています。崖の土手には緑が残っており、今川が流れていてもおかしくない雰囲気です。


飛び出すマンホール

マンホールが飛び出ているのはなぜなのでしょうか。


草むす流路跡

 谷底に降りると、渋谷川の水系には珍しく、道路となることもなく雑草が生い茂る空き地となった暗渠が見られます。暗渠化は1950年代末といいますから、50年間も空き地のまま放置されていたことになります。
 戦前の地図をみると、この付近には「花の湯」という銭湯があったようです。


 空き地暗渠は宇田川に合流する手前まで続いています。下流部は、かつては他の谷戸を流れていた川と同じく、谷底の両端に2本の水路が流れていたようです。北側の水路跡は現在は道路となっています。
 神山町38で空き地暗渠は終り、そこから先50mほどは普通の道路となって宇田川遊歩道に合流しています。


宇田川本流に戻る

 再び宇田川本流を下っていきます。神山町から宇田川町に入る寸前の区間は、暗渠上の遊歩道のつくりがここまでとはちょっと異なっています。この区間が一番最初に遊歩道風に整備された区間のようです。


アスファルトの下に隠れるもの

 宇田川町に入ると暗渠は車道となります。道路の端をよく見ると、アスファルトの下にコンクリートの構造物が隠れています。かつての護岸の跡か、あるいは暗渠を覆う蓋の端でしょうか。ガードレールの下の頑丈そうなコンクリートも、護岸を彷彿させます。


「武蔵野」の風景の今

 建物が無骨な背を向ける、やや殺風景な中を宇田川の暗渠は下っていきます。国木田独歩の「武蔵野」では、渋谷川や目黒川、神田川といった武蔵野の小川に対して

「林をくぐり、野を横切り、隠れつ現われつして、しかも曲りくねって流るる趣は春夏秋冬に通じて吾らの心を惹くに足るものがある。」

と評しています。100年ちょっと前、この近辺もそのような風景だったのでしょう。この風景から想像することはできるでしょうか。


「東京の三十年」が描く宇田川

 暗渠は渋谷BEAMの前付近で、右手から松濤公園方面と神泉谷からの支流(次回記事にて辿ります)をあわせ、宇田川町交番を経て井の頭通りと合流し、西武デパートA館とB館の間に至ります。
 昭和初期までの宇田川はこの付近から南東にそれ、現在の東急本店通り沿いを流れていました。そして、渋谷BEAM前には堰があり、明治後期まで大きな水車が回っていました。
 田山花袋「東京の三十年」には、先の国木田独歩宅への訪問記「丘の上の家」が収録されており、明治後期の、水車付近の風景が描写されています。

「渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲っていて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れているのが見え、その此方の下流には、水車がかかっていて頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私達は水車の傍の土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いた」


大岡昇平の描く宇田川

 文中で記されている「土橋」はおそらく水車の上流の「松濤橋」か、下流側の「大向橋」でしょう。「大向橋」の傍には大正中期には、少年時代の大岡昇平の家がありました。彼の回想記「幼年」とその続編「少年」には、大正中期の渋谷の風景が、特に渋谷川の水系を中心に地図も交えて詳細に描写されています。以下は彼の家の側にあった井戸の描写です。

「宇田川町のこの一帯は、水が豊富なことで特徴づけられる。おそらく道玄坂方面の台地の地下水脈があったのだろう、深さ二メートルくらいの浅い井戸から、水が絶えず湧き出て、低い井戸側を一杯にし、溢れ出ていた。夏は冷たく冬はあたたかいのが珍しかったが、少し鉱気を含んでいたから、台所で使う水は、水瓶に棕櫚の切れ端を沈めて異物を付着させ、上の澄んだところを汲んでいた。」

 田山花袋の描く田園の風景、大岡昇平の記す自噴の井戸がかつてここにあったことをどうすれば想像できるでしょうか。
(地図出典:大岡昇平「少年−ある自伝の試み」1975 筑摩書房)

西武デパートA館とB館の間

 現・東急本店通り沿いを流れていた宇田川下流部は、大正期には周辺の市街地化に伴い、「川上家屋」が設けられたりしていました(上の「少年」の地図でも大盛堂書店が川上に記されています)。昭和に入るとこの区間は暗渠化され、更に水害防止の為、バイパスともいうべき水路が新たにつくられます。この水路は大向橋から分かれるもので、当初から暗渠として開削されました。
 西武デパートA館とB館の間を通る井の頭通り。この下がその宇田川の暗渠です。この暗渠があるため、西武デパートA館とB館の地下はつながっていません(※)。


※2015年追記 実は繋がっていた西武A館とB館の地下

 「革洋同」さんの調査により、実は西武A館とB館の地下はつながっていたことが判明しました。売場となっている地下1階と地下2階は確かに宇田川の暗渠があるため繋がっていないのですが、その下の業務用フロアである地下3階には、暗渠の下を通る業務用地下道が存在していました。
下の図版は建設当時の業界紙に掲載されていたものです。

(図版出典:「SKビル(西武渋谷店)の施工」陰山茂 (「建築界」1968年7月号))


詳しくは、「革洋同」さんのサイト記事をぜひ御覧ください。上の図版も「革洋同」さんにいただいたものです。この場を借りてお礼申し上げます。

「西武渋谷店A館B館の間の地下道はあります!(おぼかたさん風に)その1」
「骨まで大洋ファン 革命的横浜大洋主義者同盟」内記事)

山手線を潜る

 宇田川は山手線の土手をトンネルで潜った先で渋谷川と合流し、終りとなります。合流地点付は明治初期までは八反田と呼ばれる湿地・沼だったそうです。そして宇田川と合流した渋谷川は、この先JR渋谷駅を越えたところから開渠となって地上に姿を現します。


 この後次回の記事で、神泉・松濤の支流を紹介してから、渋谷川中流部を辿っていきます。

2015/12/20

【2-8】宇田川(2)上原支流と宇田川中流部

(※写真は特記ない限り、2005年撮影のものです。)

 前回に引き続き、上原の支流を辿ったのち、宇田川本流を下っていきます。まずは今回辿る範囲の地図を。

(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

上原支流

 上原の谷は、狼谷の谷と同じくらい大きい谷戸となっています。谷頭は小田急線東北沢駅を挟んで南北の二つに分かれており、かつて、それぞれの谷から流れだした二つの流れが谷底を平行して流れ、現在の小田急線の北側で宇田川に合流していました。しかし、現在ではそれらの痕跡はまったくといっていいほど残っていません。
 南側の谷頭だけは、2000年頃までは空き地となっていて、木々が茂る谷の斜面が残っており、かつて水が湧き出していた頃を想像できるような風景や、水路の跡のようなスペースが残っていました。しかし今ではそこにもマンションが建ち、知らなければかつてそこが川の源だったとはわからないでしょう。
 写真は上原中学校前の道路です。かつてはこの道にそって、崖の下を川が流れていたようです。



底ぬけ沼

 大正時代末には、上原の谷を横切って井の頭通りが建設されました。地下に水道管を通した水道道路であったため、谷と交差する部分は盛り土となり、その結果、通りの南側の谷底にあたる湿地帯には水が溜まり沼となりました。この沼は「底抜け沼」と呼ばれ、大雨の後には、井の頭通り下に設けられた排水路から宇田川に向かって、かなりの水量が流れていたとか。昭和16年(1941年)に「底抜け沼」は埋め立てられ、跡地には住宅が建てられました。沼には特に湧水はなかったため、工事は順調だったとのことです。写真は井の頭通りから底抜け沼があった場所を望んだものです。階段で降りる道がかつての谷の北側の流れの跡、そして道の左側に底抜け沼がありました。


地図に記された底抜け沼

 1940年に発行された代々木大山町の町内地図には、この底抜け沼が記されており、かなり大きかったことがわかります。この地図には大山園や、宇田川源流の池も表記されていて、貴重な資料です。

(地図出典:代々木大山町全図(1940))

暗渠迷路

 前回記事最後に紹介した、上原支流が宇田川に合流する地点から、再び宇田川を下っていきます。この近辺の流路は河骨川などと同じく東京オリンピック後に暗渠化されたようです。細く曲がりくねった暗渠が路地裏を縫っています。暗渠の南北に通る路地も同じように曲がりくねっていますが、それらは宅地化に伴い本流に先立って無くなっていった、かつての宇田川の分流の跡です。宇田川沿いに限らず、かつて谷戸を流れる小川は水田に水を引き入れたり水を抜いたりするため、2〜3本の水路に分けられていました。
 暗渠となっているメインの流路は写真の場所でいったん代々木上原方面からの地蔵通り沿いに出たのち、少し進んでから北に曲がり、西原の谷からの支流に合流します。


西原支流

 西原と元代々木町の境目にも北から南に向かう細い谷があって、かつては田圃の中に小川が流れていました。その一部は、元代々木町13から南下する暗渠として残っています。暗渠は元代々木町12で東に向きを変え、11番地で南から流れてくる宇田川本流に合流します。


二宮尊徳像

 宇田川の暗渠沿いに唐突に現れる二宮尊徳像。あとでたまたま目を通した資料にこの像のことが載っていました。敷地の住人の先代が借金のカタに預ったものだそうです。


蛇行する暗渠

 暗渠は静かな住宅地の裏手を縫うように、曲がりながら東へと続いていきます。


数々の小橋

 小さな川ですが、そこには数多くの橋が架かっており、それぞれ丁寧に名前がつけられていました。区が刊行していた地図にそれらの名が残されています。

(地図出典:渋谷区地図(渋谷区役所刊行、刊行年不詳))

小田急線

 川跡は代々木八幡駅の北西で小田急の線路にぶつかります。ここで小田急線の南側に渡り、少し東側の踏切のところで小田急線を越えてきた初台支流と合流していました。(明治期までは現富ヶ谷小学校の敷地を横切り、富ヶ谷支流と合流してから初台支流・河骨川と合流していました。)


宇田川遊歩道

 川は代々木八幡駅前の道路の南側を流れた後、道路の北側に移ります。ここから宇田川遊歩道が始まります。以前は植え込みや遊具がありましたが、最近(※2000年代初頭)きれいに整備されてしまいました。遊歩道が始まってすぐに河骨川が合流します(「河骨川(2)下流部の暗渠」参照)。


宇田川本流

 川をイメージしたのか、歩道が蛇行しています。


植込みのある暗渠

 一箇所だけ、以前の状態の遊歩道が残っていました。1896年(明治29年)から97年にかけ、この場所からほんの数百メートル東、現在のNHK放送センターから渋谷公会堂に抜ける道沿いに国木田独歩が居を構えていました。この家での暮らしや周囲の風景をもとに「武蔵野」が書かれました。
 独歩が去った後、1909年(明治42年)には陸軍代々木練兵場ができ、戦後米軍に接取されてワシントンハイツ~返還後東京オリンピックの宿舎となったのち1967年に代々木公園となりました。
 また、ここのすぐそば、NHK放送センターの辺りは窪地となっていて池があったようです。現在、井の頭通りがわずかな区間二手にわかれ、間に島状の緑地がある一角がありますが、カーブしている方が旧道で、池を避けるために曲がっていた様です。

※2015年追記:現在ではこの植え込みは失くなり、他の場所と同様小奇麗な遊歩道として整備されています。


 この近辺、神山町2番地では、神山町と富ヶ谷1丁目の間の谷からの支流が合流していました。次回はそちらを辿った後、宇田川下流部を渋谷川合流地点まで追っていきます。


2015/12/17

【2-7】宇田川(1)狼谷の上流部

(※写真は特記ない限り2005年撮影のものです)

 今回から3回にわたり、宇田川の本流を辿っていきます。まずその源流部をさぐっていきます。最初に源流部の地図を示しておきます。宇田川水系全体の地図はこちら

(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

「狼谷」の源流

 宇田川の源流部は、枝上の谷から流れるいくつかの流れが合わさっていますが、そのなかで本流は渋谷区西原2-49近辺の「狼谷(おおかみだに)」に発していた細流とされています。「狼谷」は「大上谷」とも書かれ、H字型の深い窪地となっています。川はH字右下にあたるところから南下し、小田急線代々木上原駅近辺で上原の谷からの小流と旧大山園近辺からの水をあわせ、その先で西原と元代々木の境界の谷からの小流をあわせ、代々木八幡駅近辺で河骨川、初台支流、富ヶ谷支流と合流していました。
 かつて西原から初台にかけての一帯は「宇陀野(うだの)」と呼ばれており、そこから流れ出る川ということで宇田川の名がついたといわれています。「宇陀」「宇田」のつく地名は全国にあり、語源にも諸説ありますが、ここ場合は湿地帯や河川流域の湿地をさす語との説が適切でしょう。

 すぐ近くの西原小学校校歌(1955年制定)では

 「みなもと清き渋谷川 細くはあれど一筋に 
 つらぬき進めば末遂に 海にもいたるぞ事々に
 精魂かたむけ 当たらん我らも」

 と歌われており、この一帯が宇田川≒渋谷川の源流と捉えられているようです。H字の底を囲むように、代々幡斎場や製品評価技術基盤機構、国際協力機構(JICA)東京国際センターといった施設が建てられています。写真はJICA東京国際センター前の道で、H字左上にあたる谷の谷頭地形が道路の起伏に現れています。



源流地点に残る湧水池

 かつての狼谷は森に覆われていて、谷底は水田となっていました。大正時代には森永製菓創業者の屋敷となり、水田をなくして、湧水を利用した池がふたつ作られました。現在屋敷の一帯はJICA東京国際センターと製品評価技術基盤機構(NITE)の敷地になりましたが、今でも色濃い緑に囲まれた谷底に池が残っています。JICA東京国際センターの池では、東京都の1991年の調査で敷地内に一日40立方mほどの湧水が確認されています。


(※2010年撮影)

流れだす川

 JICAの池からあふれる水は、小さな流れとなって隣の製品評価技術基盤機構の敷地内の池へと注ぎ込みます。

(※2010年撮影)

製品評価技術基盤機構(NITE)の池

 こちらの池はNITEの建物の建て替えにあたって、人工的なかたちに整備されていますが、こちらももともとは森永屋敷の敷地にあった池のひとつです。森永邸は昭和初期には「代々幡ガーデン」として開放されていたようです。


代々幡斎場南の道

 NITEに隣接した丘の上には代々幡斎場があります。斎場はもともと四谷千日谷(こちらも川の源流部)にありましたが、1664年、狼谷に移ってきました。以来300年以上この場所で続いおり、東京の火葬場の中で最も古いもののひとつです。
 斎場の南側には、いかにも暗渠を思わせる道がありました。この道はH字の右上に位置します。実際にはこのみち自体は暗渠ではなく、ここよりやや南に、池から流れだした川が通っていました。


狼谷底を望む

 写真は代々木大山公園南東側の道から、谷底の方向を望んだものです。かなり急な坂となっています。谷底の左手はH字の真ん中の横棒にあたる谷となっていて、かつては宇田川が左手から右手へと流れだしていました。



徳川山

 代々木上原駅前方面にまっすぐに下っていくこの道付近では、大正末期までは、細長い水田を挟んでふた手に分かれた宇田川が流れていました。昭和に入ると、一帯は箱根土地株式会社により台地の上とあわせて住宅地「徳川山」として造成され、1940年前後に高級住宅地として分譲されました。(堤康次郎率いる箱根土地株式会社はのちのコクドで、当時は国立や一橋学園といった学園都市の開発を手がけていました。)造成の際に宇田川は直線に整備された道路の下に暗渠として付け替えられたため、付近で川の痕跡はまったく見つけることができなくなっています。


交番裏の怪しい道

 狼谷は西原交番の付近で広い谷へと出ます。交番の南側には、すぐに行き止まりになる怪しい道があります。古地図をみるとここから東に、宇田川本流の北側に並行する水路が延びています。かつて谷底に水田が広がっていた頃は、水田の両側と真ん中に、あわせて3本の水路が平行して流れていました(冒頭の地図参照)。周囲の宅地化により、最終的には真ん中の水路が残り、1960年代後半に暗渠化されます。



大山園

 西原交番近辺では、西側から大山町の谷からの流れが合流していました。もともと一帯は森で、明治初期には木戸孝充所有の農園となり、その後所有者の変遷をへて1913年(大正2年)、谷頭にあたる大山町35番地を中心に、地形を利用した池や2つの滝、あずまやなどを備えた遊園地(庭園)「大山園」がつくられました。大正末期の地図を見ると、先ほどの交番の西側、大山町43番地の辺りに池が描かれています。
 1927年の小田急線開通後、大山園の土地所有者となった山下汽船の創業者により、一帯は宅地開発され、徳川山と同様高級住宅地として分譲されます。それともなって大山園の敷地は縮小していきますが、中心部の庭園は残りました。
 戦後1951年には、大山園はレバノン人の貿易商の所有となります。敷地内に朱塗りの太鼓橋や温水プールもある豪邸は、バブル期の1988年には430億円にて売却されますが、バブル崩壊に伴い土地開発は頓挫。その後1996年には渋谷区が80億円で取得、特別養護老人ホームと看護学校を計画します。ところがこれも中止となり、最終的には2000年に、某アパレル会社社長の邸宅となっています。
 敷地には塀が高く張り巡らされていて、中の様子はまったくわかりません。石垣が谷を横切ってダムの様にたちはだかっています。


西原児童遊園

 さて、西原交番から少し南西に下り、代々木上原駅前にある小さな公園「西原児童遊園」までくると、ようやくはっきりした暗渠が現れます。暗渠は公園の東端の階段を降りたところから始まります。


住宅地の中を縫うように、暗渠の細い路地が曲がりくねって東へと続いていきます。


 この近辺では、駅南西側の上原の谷からの支流が合流していました。代々木上原駅前から代々木八幡駅近辺にかけての宇田川流域一帯は、かつては「底ぬけ田圃」と呼ばれる低湿地帯で、踏み入った鳥追いが泥に呑まれ溺れ死んだとの伝承も残っているそうです。次回は上原の支流に立ち寄った後、引き続き宇田川中流部を下っていきます。