2015/11/25

【1-4】玉川上水原宿村分水(1)原宿村分水、千駄ヶ谷分水

(写真は特記がない限り2005年撮影です。)

玉川上水原宿村分水

 玉川上水原宿村分水は原宿村、穏田村、上渋谷村の灌漑を目的に1724年に開通した玉川上水からの分水です。分水と言っても、その大半は自然河川を利用したもので、代々木3-21の現在文化学園のあるところから南に分水し、代々木3-29の湧水から発していた小川に引き込んで、小川沿いの浅い谷戸に拓かれた原宿村の水田を潤し、神宮前3-28の原宿橋下流側で渋谷川に合流していました。
  渋谷区史ではこの自然河川を代々木川と記していますが、これは実在の呼称ではないと思われます。なぜなら、もともと代々木は明治神宮の西側の地名で、川が流れていたのは千駄ヶ谷村、原宿村(のち、千駄ヶ谷町)だったからです。上流部の西側の流れは、多くが代々木村との境界となってはいたものの、代々木村には水利権はありませんでした。そして、上流部の地名が「代々木」となるのは1960年代後半の住居表示法施行以降で、そのころには川はすでに暗渠化されていました。ここではこの川を含め、全体を原宿村分水と呼ぶことにします。

まずは上流部から辿っていきます。


 写真は文化学園前、かつて玉川上水の水路だったところで、左側のビルの辺りから分水していました。画面手前に見えるアーチ上のモニュメントは、玉川上水が新宿駅構内を越えていた場所のレンガ造りの暗渠を復元したものだそうです。(2010年撮影)


水源の谷と藤倉電線の水車

 もともとの水源であったとされる近辺は窪地の谷頭地形となっており、明治時代の地図を見ると代々木3-15、14、28に池が描かれています。湧水があったという代々木3-29は現在都営アパートとなっており痕跡は見当たりません。玉川上水と非常に近く、上水からの漏水が湧水に加わっていた可能性もあります。
 分水は写真の道路右側(西側)の公務員住宅敷地の西端を南下し、写真奥、右から左に走る谷に合流して左(東)に流れていました。写真のとおり、かなりの傾斜となっていて、これを利用して明治時代には2基の水車が設けられ、米搗きや生糸製造に使われていました。1890年(明治23年)には公務員住宅の場所に、この水車を動力源として藤倉電線の工場が設立されました。水車は直径7mもある大きなものだったそうです。


行き止まりの水路跡

 公務員住宅敷地の南側に、水路跡の道が行き止まりになって残っています。この近辺ではこの場所だけが、川跡の雰囲気を漂わせています。


戸田因幡守抱屋敷分水と葵橋

 一方、原宿村分水の分水地点から玉川上水を東へ300mほど下った代々木2-5近辺から、かつて現新宿駅南口の南西側一帯にあった宇都宮藩戸田因幡守抱屋敷への分水がひかれており、これも原宿村分水のもととなった小川に合流していました。こちらが開削されたのは1699年と原宿村分水よりも早く、屋敷内の庭園用の分水だったと思われます。
 敷地内南側にあった池の周囲は、明治時代後期には紀州徳川家の屋敷となりました(渋谷川水系を辿っているとなぜか大部分の川の水源に「紀州徳川家」の屋敷が存在しています)。新宿駅近くの玉川上水路跡に、この徳川屋敷に名前の由来を持つ「葵橋」跡の碑がたっており、また水路跡も葵通りと名付けられています。
(※ 原版が見つからなかったため、画像が粗くなっています)


 田山花袋「東京の三十年」に収められた「川ぞいの路」に、この近辺の1890年代初頭の風景が描かれています。

「新宿駅の山手線の踏切・・・それも唯一線あるばかりであったが、それを越ゆると、玉川上水は美しい水彩画のような光景を次第に私の前に展けて来た。楢の林があると思うと、カサカサと風に鳴る萱原がある。路に傍って昔から住んでいるらしい百姓家が一軒ぽつねんとしてある。栗の木がある。と、帯を引いたような細い水の流れが、潺湲として流れているのが眼に入る。水が一ところ急湍をつくって、泡を立てて流れた。斜阪になった両方の岸には、秋は美しく尾花が粧点された。橋がところどころに絵のようにかかっていた。この玉川上水に沿った細い路、この路を歩く間、私の頭はいつも熱い創作熱に燃えていた」

 分水は、屋敷が徳川家の所有になったのと前後して「千駄ヶ谷分水」と呼ばれるようになりました。明治後期の分水は玉川上水に堰をつくり、大人の背丈程のトンネルで分水されていたそうです。堰は2m近い滝になっていたとのことです。また、原宿村分水と同じくこちらの水路にも水車が設けられ、米搗きや撚糸、組紐製造などに利用されていました。水車は現在マインズタワーが建っている辺りより下流側に、直径1.9m~5.4mのものが計4基あったようです。周囲の都市化と共に水車もなくなり、分水路は昭和初期までには埋めたてられてしまったようです。

徳川家屋敷の池跡

 徳川家屋敷の一帯は緑に囲まれた静かな場所であったため、大正から昭和初期にかけては学者や文化人が多く居を構えていたそうです。葵通り(玉川上水跡)の一本南側に現存する通りは「博士横丁」と呼ばれ、通り沿いに北一輝や長谷川伸、幸徳秋水なども住んでいたとか。
 徳川邸の池から流路が流れ出す地点は段差があり滝状になっていて、明治期にはここにも水車が設けられていました。昭和2年に屋敷の池は埋め立てられ、跡地には鉄道病院が建ちました。現在はJR東京総合病院となっています。写真左手が、かつて池があった辺りです。道路が低くなっている地点を左から右に横切って水路が流れ出し、100mほど先のところで原宿村分水へ合流していました。
(※ 原版が見つからなかったため、画像が粗くなっています)



代々木小学校南の暗渠

 原宿村分水は2本の流路が並行して流れていて流路の間は水田となっており、帯状の水田地帯が現在の小田急線南新宿駅近辺から神宮前まで続いていました。2本のうち西側の流路が千駄ヶ谷と代々木の境界線となっていました(現在は新宿駅南側一帯は代々木に編入)。
 東側の水路は1932年(昭和7年)頃に暗渠化されふつうの道路となっています(道路下には幅1.8mの暗渠が通っています)が、西側の水路は1960年代まで開渠だったようで、川跡の痕跡を残す暗渠となっています。こちらを辿っていくことにします。代々木小学校南側の行き止まりの道からはっきりした暗渠が出現しています。


南新宿駅下の橋跡

 小田急線南新宿駅ホームの高架下に、川が潜っていた跡が残っています。小田急線は1927年(昭和2年)に開通しましたが、開通当時の駅はもう少し新宿寄りにあり「千駄ヶ谷新田駅」という名称で、現在の場所は原宿村分水の谷を越えるため土手となっていたようです。1968年に駅が現在の場所に移動したとのことなので、その時点では川が開渠だったのかもしれません。


ポンプ井戸

 流路沿いの路地端にポンプ式の井戸が残っていました。よく手入れされており現役の様です。

※南新宿駅の前後の区間については、こちらの記事もご参照下さい
「渋谷川水系再訪(1)南新宿駅付近の原宿村分水」(2009/11/21公開)


大谷石の擁壁

 2本の暗渠はゆるやかに左に曲がりつつ平行してすすみます。西側の暗渠の右岸側には谷戸の縁の段差が擁壁となって現れます。ここの大谷石の擁壁は、川が暗渠化される以前からのものです。


石段

 明治神宮北参道入口のそばです。石垣には羊歯や苔が生えており、湿気の高さが伺えます。ここの石段で一旦川跡は消滅しています。明治以降(おそらく山手線が開通時)、この近辺でいったん東側水路と西側水路は一本にまとめられて山手線東側に抜けており、明治通り以東で再度2本に分かれていました。また、ここの手前でかつて明治神宮内の北池からの流れが合流していました。


次回は一旦この北池からの流れに立ち寄ってみます。


0 件のコメント:

コメントを投稿