2015/11/21

【1-2】渋谷川上流(1)「千駄ヶ谷」(新宿御苑)の源流

「千駄ヶ谷」の源流

 渋谷川は現在新宿御苑内の庭園として整備され上の池・中の池・下の池が連なっている谷「千駄ヶ谷」に源流を発する川です。もともとは流量の少ない川でしたが、江戸時代に玉川上水が四谷大木戸まで開通してからはその余水も受けるようになりました。余水とは御苑の東で合流しています。このことから、上流部では「余水川」とも呼ばれていたようです。「せんだがや」とは「千駄萱」、つまり大量の萱の生える湿地だったといいます(駄は馬一頭が運べる荷物の単位)。
 一帯は江戸時代に徳川家家臣の内藤家の領有となり、その一角に1772年、玉藻池を中心とする庭園「玉川園」がつくられました。この「玉藻池」を渋谷川の水源とする説も散見されます。確かに玉藻池は千駄ヶ谷の枝谷を利用して作られた池であり、こちらにも湧水があったようですが、池自体は玉川上水余水を引いてつくられた人工の池です。

 渋谷川の本来の源流は、御苑の西側、「千駄ヶ谷」の谷頭近辺に位置する天龍寺境内の「弁天池」だったといわれています。天龍寺は17世紀半ばに牛込よりこの地に移転してきましたが、それ以前から池があったかどうかは不明です。確かに江戸時代の地図には、天龍寺境内の池から渋谷川が流れ出しているように描かれています。また、近年の遺跡発掘では「弁天池」かどうかはわかりませんが湧水を利用した池が発見され、明治初期に埋め立てられたと推定されています。

 写真は2004年まで新宿御苑の西端近くにあった、渋谷川のいわば最上流部ともいえる流れです。この頃までは季節によってはじわじわと湧き出した水がせせらぎをつくって流れていました。とても新宿駅から1kmも離れていない都会のど真ん中とは信じられない風景です。(※2015年現在では整備されてしまい、人工的に水が流されている)

内藤大和守下屋敷分水

 一方で江戸期には玉川上水から天龍寺の東側(現在の新宿高校西側境界線沿い)に沿って千駄ヶ谷の谷頭まで、内藤大和守下屋敷分水が引かれていました。この分水は明治中頃までには廃止されたようですが、この間源流部の流路は玉川上水の分水路のような状態になっていたことになります。御苑西端の道端に、分水路の遺構のようなものがわずかに残っています。(右上が道。画面中央には板をさしこんで堰止められるようなコンクリート製の溝がある)このように、谷筋の湧水に玉川上水からの分水を加えた流れが千駄ヶ谷を東進していました。


ひょうたん池跡のせせらぎ

 玉川上水から内藤屋敷への分水路のあった谷は分水の廃止後「ひょうたん池」になりました。池は戦前に防空壕の残土で埋め立てられましたが、冒頭の写真のように、近年までは、内藤大和守下屋敷分水の遺構と道を挟んだ反対側の地面から水が滲み出して、流れていました。
 1991年の東京都調査によれば、新宿御苑内には5箇所の湧水が確認されています。いずれも地下水位30m、関東ローム層の上に湧き出す水です。この源流部にあったせせらぎがこれらの湧水のひとつなのかどうかはわかりませんが、2005年に関係筋にきいたところでは、人工的に水を流しているわけではなく、埋められた分水路の遺構内に溜まった雨水が染み出しているのではないかとのことでした。確かに季節によってはせせらぎというより水溜り状態のときもありましたが、それは間違いなく渋谷川の源流でした。流れはひょうたん池跡の湿地を潤した後、土管で「上の池」に導かれていました。
しかし、数年前に一帯は整備されて水は染み出さなくなり、循環水が流れるようになってしまいました。


上の池

「上の池」はもともとは新宿植物御苑の時代に鴨池として造成された池です。また、この池と中池をつなぐ池は養魚池だったようです。1972年(明治5年)、官有地となった内藤家屋敷の敷地には農業試験場「内藤新宿試験場」が開設、明治12年に新宿植物御苑として皇室の御料地・農園になりました。1906年(明治39年)には敷地東側の西洋式庭園が完成して「新宿御苑」となり、戦後一般に開放されるかたちになりました。


庭園の小川

 上の池から連なる池の北側に、石組でつくられた小川があります。この水路は湧水を利用して作られていたようです。現在上流の方は水もなく湿っているだけですが、途中から徐々に水が現れています。ここも5箇所の湧水地点のひとつなのでしょうか。


 流路の途中に掘抜き井戸のような穴がありますが、何でしょう?単に雨水がたまっているだけのようにも見えますし、わずかに水が湧きだしているようにも見えます。中の水は澄んでいました。この場所のすぐ下流側が小さな池となっています。


擬木の橋

「千駄ヶ谷」沿いに上の池から連なる中の池、下の池は、西洋式庭園の造成時に川沿いの水田もしくは湿地だった場所を池にしたようです。現在中の池が蓮池となっていることからも、もともと湿地だったことが推定できます。下の池からいよいよ渋谷川が流れ出しています。この場所には、日本最古の擬木の橋(コンクリートで木を模した橋)がかかっています。この橋は1905年(明治38年)にフランスから購入され、3人の技師が来日して組み立てたとのことです。


渋谷川流出地点

 先の橋の下から、渋谷川が流れ出しています。川幅3mほどでしょうか。池から流れ出る水は少し黒ずんでいます(蓮のせいだと思います)が、橋の下流の左手から、かなりの量の綺麗な水が流れ込んでいます。写真でいうと、中央右側から池の水が流れ、中央より下の水が、左下から流入する水です。薄暗くてよく見えませんが、水中に土管があるようにも見えます。
 東京都の調査で明らかになっている5箇所の湧水のうち1箇所は、一日あたり646立方メートルもの湧水量が計測されていますが、それがこの場所なのかもしれません。(ちなみに他の場所は多い順に36、21、11、8.6立方米)

(※2015年追記:最近では、池の水位が低くなり直接池からは水は流れ出していません。一方で橋の直下付近の川底からかなりの量の水が湧き出し、流れを形作っています。詳細はこちらの記事をご参照ください→「みちくさ学会記事拾遺 玉川上水余水吐の暗渠と渋谷川源流 」(2010/11/17記))


 せっかく流れ出した川ですが、この先数十メートル流れるとすぐに暗渠の中に消えてしまいます。川は新宿御苑を出て道路下を進み、中央線の線路の北側で、かつて御苑の東側の境界に沿って流れていた玉川上水余水の暗渠と合流します。




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